行間と余白

   中1 はななは(hananaha)  2026年2月2日

 新聞を全く読まない人と、朝手洗いで新刊書の広告を最大の楽しみだという人もいる。大抵の場合、新聞が無名性の名において大衆を善導しようとして声高いに説いている論述と、一人ひとりの新聞人が生きている現実のずれを、そのまま出してくれるような紙面にあまりお目にかからない。安物だが、新しさだけは強調してある夜店の売り場は子供にとって魅惑の空間そのものである。新聞の中に、そういうものを探すとすればあちこちにちらばっている情報であるだろう。多くの人が、新聞の読書欄を読まず広告部分を読むのは、そのような情報の極秘化の欲求の表れかもしれない。私は、行間や余白などに目を向けると良いと思う

 第一の理由は、行間や余白がないと疲れてしまうからである。授業ごとの間に休憩時間がないと、疲れてしまうだろう。合間がないと、前の授業の整理ができなかったり、次の授業に集中できない可能性もある。お手洗いに行っておかないと、授業中に行きたくなってしまい、集中できない可能性がある。水分補給をしておかないと、喉が渇きすぎてみんなの前で「先生水飲んでもいいですか」と聞くことになってしまい恥ずかしい思いをするかもしれないのだ。それぞれ休み時間の過ごしかたは異なるけれど、どれだけその休み時間を濃いものにするかは自分次第だ。この間で、課題を終わらせることができるかもしれない。と考えると見方も変わってくる。休み時間の過ごし方で、これからの生活が変わってくるかもしれない。過ごし方によって次の授業の質が変わってくるはずだ。

 第二の理由は、行間や余白のような役に立たなそうなものでも重要な役割を果たしていることがあるからだ。授業中で考えると分かりやすいと思う。授業を受けているときに、それにまつわる雑談があったりすると、頭に入りやすくなると思う。先日、社会科で金閣寺について学習しているとき、社会担当の先生が金閣寺にまつわる自分の話をしてくれた。その話で、授業は盛り上がったし少し覚えやすくなっていた。授業に雑談が入ることで学習効果が高まる可能性を示している研究がある。例えば、対話的授業研究で知られているマーティン・ナイスランドさんは、教師と生徒とのやり取りが多い授業ほど、生徒の理解度や成績が高い傾向にあると示している。特に、単なる講義形式よりも、問いかけや関連エピソードを含んでいる対話的な展開のほうが認知的に深い処理を促すとされているそうだ。つまり、雑談もあった方が良いということだ。

 確かに、中身が充実していることは大切だ。充実している集中しやすくなる。しかし「余白こそが美を生む」という谷崎潤一郎の名言があるように余白は大切だ。人生で、行間や余白からできている美について考えたことは少ないだろう。だから、これからはもっと目をむけるべきだ。自分自身の整理もできるこの合間は、とても大切なのだ。自分でどれだけその行間を濃くするかは自分で決められる。自分のなりたいようにカスタマイズし、生活を変えていくことが一番よいのだろう。