新聞というものをまるで読まない

   中1 あえなて(aenate)  2026年2月2日

 どちらかと言えば、私は、行間と余白の読み手であるのかもしれない。そういう意味で私は、新聞を、月一度とか二度でなく毎日立つ縁日のようなものであるとみている不思議がある。縁日であるから、やはりそこには、日常生活の時間が流れと異なった、様々な偶然の陥入があった方が良い。演劇、音楽、催し、人についてなど、こうした、自分が知っているから隠れた意味が明らかになると言った事実は、なるべく宝探しのように、それらしくないところに置いてあった方が良い。

行間や余白といったものに目を向けるべきだ。

 その理由は第一に、行間や余白のように一見役に立たないものが重要な役割を果たしていることがあるからだ。新聞はメインのニュースよりも、冊子中盤にあるスポーツページや地元のニュースなどの方が重要な役割をしていると思う。スポーツのニュースは一面にはのりににくいが、一面の他にあんなに大きな写真と見出しをつけれんのはスポーツだけだと思う。また新聞の読み方で、見出しだけ読む人もいる。これでは、記事の内容がしっかり掴めない。見出しの言葉の意味が違った場合、内容の文を読んできずけるかもしれない。さらに新聞には広告の欄がある。意外とここに店で買うより全然安い値段で欲しい商品が買えるかもしれない。だからこそ、新聞は行間や余白などの一見役に立たなそうなところも読むべきなのだ。

 第二の理由に、行間や余白というものがないと疲れてしまうからだ。授業の時間に、ひたすら情報の時は眠たくなるけど、先生の雑談なとは聞いてても眠たくならないということもあるだろう。実際に社会の歴史の授業で、この出来事が何年に起きたと言われても何個も出来事はあるから全ては頭に入らない。この場合覚え方がしっかり出来てたら手軽に覚えられると思う。例えば、鎌倉時代の始まり、源頼朝が征夷大将軍に任命された年つまり千百九十二年と先生は一つの歴史を紹介してくれる。その後に、いい国作ろう鎌倉幕府などといった合言葉をあまり大きな声ではない声で言ってくれる時がある。こっちの方が覚えやすくなるのは違いない。だから、行間や余白などを活用しないと疲れてしまうのだ。

 確かに中身が充実していることは大切だ。しかし「雑草とは、まだ、その美点が発見されていない植物である」という名言もあるように、行間や余白を侮ることはできないと思う。