新聞は余白を重視する
()
年月日
要約:新聞は全く読まない人もいれば一日の楽しみだという人もいる。そのような対極されたグループの中では、筆者は新聞の一生懸命の主張よりも「余白」の読み手の方なのだそう。そしてその余白を探そうとするといくらでも出てくるのだそう。社会と世間の差、これらは新聞の本質であり、もちろん探す気になったらいくらでも出てくるのも当然のことだ。そのような小さな隙間があるからこそ、人々はあまり耳に入ってこないのだとか。
私は人々はより余白などの隙間を重視すべきだと思う。まず一つ目の理由として、余韻は自由の隙間を生んでくれるからだ。皆さんは暇になったときはスマホを見ることに慣れてしまったと思います。これは今の時代なら不可避なことであり、自分の周りのこと以外の情報も楽々とに入れられる。これまたドーパミンを発し、私は大反対の世の当たり前だが、今回は話が違うので避けよう。話が大胆にそれたが、最近はスマホなどの電子機器によって塗りつぶされてしまった白のキャンバスをほんの少し前は自分の想像力を使っていたのだ。私の場合は今再度はまっている岡本太郎熱だが、皆思いはせる物があるのだ。だが、今の時代ティットック、エックス、ユーチューブショーツなどで指で画面をスワイプしたら、自分の考える機会もスワイプして流してしまい、徐々にチャンスが減っている。このような社会の風潮の真っただ中だからこそ、私は余白などを重視すればいいのだと主張する。一見重い課題のように聞こえるが、要約した作文のように探そうと思えばいくらでも顔を表すのだ。人はいつでも無駄を省き、楽をし、自分の思考範囲内のことを使用とし、その中でなるべく生活しようとする。だからこそ、哲学者など自分の知識の範囲外のことをインプットしようとすると非常に抵抗し、批判もする。これは私の中にある確立しつつあるステリオタイプだ。しかし、実際ハマるとすぐわかる。身の回りの「当たり前」や「常識」に旗門を掲げ、挑みながら自分が解釈をし、自分の価値観を生成していくのだ。大胆に聞こえるが、「人をもっと成長させるためには余白が必須だ」と言っても過言ではない。
二つ目の理由として気楽に見れるからだ。先程は自分の中の思いを記述したが、これは皆に共通する意見だと思う。シンプルに物理的に隙間や何も書いてない空白があったらがっしりしていなく精神的にも楽だ。このような文や物の少なさにプラスアルファで楽かつ共感しやすい物ならより一層人はハマるのだ。詩人や歌人などで考えてみてはどうだ。あの世界にいる方々は主に少ない文量で人々の印象に残り、心に刺さる。松尾芭蕉の「古い毛や、蛙飛び込む水の音」などは素晴らしい例だ。これは義務教育を受けたであろう100%に近い日本人に定着した名作だ。この奥深さとたったの17音の作品が覚えやすさの秘訣なのでないのか。このようにぎっしり詰まった現代人の心は少しは気楽で一息付ける余白が必要なのだ。
続く