形式と本心
中3 あけとう(aketou)
2026年2月2日
大学の、アメリカ人講師による会話のクラスに、なじむことができなかった。講師が常に笑顔なことや、わたしのうつむいている、集中しているポーズが不満に映っていることが原因だ。それから十数年以上がたった昨夏、アメリカへ語学研修に同行したとき、その笑顔の辛さと、笑顔によるホスピタリティに触れて、笑顔を意識的に作っていることに気づいた。異なる価値観が交じり合うアメリカでは、笑顔がコミュニケーションのルールだったのだ。英語表現の基礎は、伝えようとする意志、その微笑む姿勢なのかもしれない。僕は、無理をせずありのままの自分で生きたい。
その方法の第一は、自分がなぜ偽ってしまうのかを探ることだ。「ありのままでいましょう」と言われていても、できないものはできないと感じることはないだろうか?僕はそのように感じてしまう。ついでに反発したくもなってくる。だからこそ、自分が偽ってしまう無意識での理由を探り、感じることが偽ってしまう理由の第一歩だ。実際に、僕はこれに似た経験がある。僕は、美しさを感じるBGMを一人で聞くという趣味がある。しかしその頃は、音楽を聴いているときにすさまじい「虚無」を感じた期間があった。原因を探っていくと、僕はどうやらら寂しかったようだということが分かった。その頃は、「自分の意見を伝えよう!」的な情報が沢山入ってきており、「時代の先駆者は群れない」というような固定概念、もといアイデンティティを基にふるまっていたからだろう。これに気づいてからは、周囲は何一つ変わっていないのに寂しさを感じることもなくなった。このように、自分が偽ることをやめると、何より自分が楽になることが多い。であれば、偽ることに意味はあるのだろうか?
その方法の第二は、入試の面接など、形式だけの対話の場を減らすことだ。僕は「入試の面接は本心を伝えにく過ぎる。果たして意味はあるのか?」と、常々思う。先生が、「面接は、その人が、どれだけこの学校に入るために練習してきたかを知るためにある。」と言っていたこともあるが、それでも納得はそこまでできない。一方、神山まるごと高専での入試は、面接とは思えないほどリラックスできるような場だった。そして何より、そこでは話すこと自体が楽しかった。面接終わりに、もっと話したかったと思うほどだ。形式だけの場じゃないほうが、相手をよく知れるし、何より楽しいと思う。
確かに、ありのままの自分でいれば場違いな言動や人を傷つける行動が生まれることもあると思うかもしれない。しかし、真に自分を偽らなければ、攻撃性そのものは芽生えないものだ。それがうまくいっていないのが現状だからこそ、形式やマナーは必要になる。もっとも、それらは本心の代わりにはならない。「自分の心のうちに持っていないものは何一つ自分の財産ではない」という言葉の通り、マナーはあくまで、「相手に誠意を伝えたい」という思いの表れであって、本心の無いものはただの張りぼてにすぎない。
形式は本心を伝えやすくするために存在するのだ。だから僕は、無理をせずありのままの自分で生きたい。