大相撲をはじめて見にいったとき(感)
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年月日
大相撲を見に行ったとき、観客がざわついていることに驚いた。居住まいをただしてみるという態度は芸術がそれ自体自律した普遍的な価値を持つという考え方から生まれた。この考えから、コンサートホールのような演奏者と観客を隔離し、観客相互を隔離する装置が作られた。一九八〇年代になると、この「芸術鑑賞」に対する批判として、観客を演劇の中に巻き込むような実験が行われるようになった。この文章を読んで、私も将来演奏をしたり展示を作ったりするときに常に観客を考えていきたいと思った。
そのための方法としては第一に、参加による混乱を恐れないことである。そうすれば、より観客の反応に目を向けることができるようになり、同時に何事にも落ち着いて行動する判断力が身につくと思う。私も過去に観客の反応の差を逆手にとった経験がある。それは、去年の二学期の英語の授業での時間である。その授業では、英文を暗記してクラスメイトの前で発表するということを行っていた。英語という教科は、私にとってすべての教科のなかで得意であったし、学習する際に優先順位が高いものでもあったので、もちろんそのテストは完ぺきにしていた。しかしテスト当日、思いがけない問題が起きた。それは、観客であるクラスメイトが彼らの友達の発表の時にしか反応や拍手をしないというもの。それ以外の発表者のときには、隣の席の人と話していたり爪をいじったりしていた。またテストの発表者の評価用紙にも友達にしか高得点をつけないという始末で、後ろの席から観客の姿を見ている身としては、すこし腹が立った。そしてついに自分の発表が来て、流石に最初こそ緊張したものの、案の定だれも私の発表を聞いていない。このせいか、他の発表の時よりもなぜかあまり失敗しなかったし、気持ちも落ち着いていた。私はこの経験から、観客がほぼ観客の意味を成していなくても、しっかりと発表することの意味を学んだ。また、ただ今でも思っているのは、絶対に他の人よりもうまく発表できたということで、観客はそこをしっかりと判断してほしいと感じた。
また第二の方法としては、上に立つ人が何でも自分でやりすぎないことである。そうすれば、見せる側見る側の両方が良い一体感を出せるに違いないと感じる。私の友達は合気道部に所属していて、一緒にご飯を食べるときによく部活内のことについて教えてくれる。最近そこでその友達が「先輩の言ったことが全てで私たち後輩の意見が反映されていない」と愚痴を漏らしていた。そのなかでも特に印象に残っているのは、文化祭での話だ。合気道部は文化祭で公演をするのだが、去年は観客の有り方について部長と後輩の間で言い合いが起きたそうだ。部長は「演技に集中したいので観客には反応しないでほしい」、一方後輩たちは「観客が反応してくれたほうが緊張がほぐれる」という意見の対立であったらしい。しかしそこからが問題で、なんと部長が後輩の意見を何も聞かずに自分勝手に公演を行ってしまった。実際に私が公演を見たときも、後輩と見られる生徒が私たち観客に向かって「声を出さないでください」と書いてあるボードを見せていた。そのせいか、観客サイドとしては盛り上がっていない雰囲気が漂っていた。また私はこの話を聞いていて、誰か一人の意見だけで話を通すことはあまり良い結果を招かないと感じたし、多くの人の意見をたくさん取り入れた方が、より観客側に立った演出をできるようになるのではないかと思った。
確かに、静かに演奏を聞いた方がより音楽に没入できるし、集中して演奏を聞きたいという人も多くいる。しかし「家とは外から見るためのものではなく、中で住むためのものである。」という言葉もあるように、私がもし見せる側であるなら、より観客を笑顔にしたいと思うので、今の演奏会のような観客がシーンとなるような閉塞的な空気を作り出すのではなく、感情を口に出せるような観客が思う存分に私の見せるものを楽しんでくれるようなフラットな空間を作っていきたいと思った。