私の家は自動車が(感)(清書)
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年月日
私の家は自動車が(感)
何が人々をこの路地に惹きつけたのだろう。人々はこの路地で地球のかけらを発見していたのではなかったろうか。その路地にはたくさんの生き物がいた。だが工事で、ネコジャラシにスギナ、スミレもタチイヌノフグリも路地から姿を消してしまった。道は車向きの道路になり、地球のかけらではなくなってしまった。
私の周りにはたくさんの自然がある。私は田んぼや森林、川などに触れて育ってきた。私の家の横の土地も前は草むらで、生き物のすみかであり、私にとっては自然の遊び場、そして自然の学校だった。その場所が今では綺麗な家が建っている。この頃、私の身の回りにそのような変化が多くなってきている。一年生からずっと通っていた田んぼに挟まれた通学路。春は田んぼに生えた蓮華を摘んだり、花のかんむりを作ったりする。梅雨の時期や夏は、おたまじゃくしやカエルを捕まえたり、カエルの合唱に耳を澄ませたりした。冬は稲藁焼きの香ばしい匂いに幸せをもらう。だが、今、その田んぼは埋め立てられ、住宅地になっている。つまり、もうあの田んぼの楽しみは味わえないのだ。どこか寂しい気持ちになる。もちろん自分たちが住むために綺麗な住宅地を作ることも重要だが、自然から学ぶことは多い、だから大切にしなければならないということを忘れてはいけない。
また、私の友達のお母さんが小学生の頃は、全ての道(通学路)もコンクリートではなく土だった。たくさん花が生えたり虫がたくさんいたりと、とても楽しかったそうだ。もし、その環境が一度でも戻ってくるなら、体験したいと思うし、その友達のお母さんが羨ましく思えた。確かに小学生が通う道としてコンクリートの方が安全ではあるが、自然ののままの姿も残して欲しいとも思う。
「全ての旅において、人は求めるものより、はるかに多くのものを自然から受け取る」という名言があるように、自然と触れると新たな発見があったり、幸せを感じることができる。そして人間も自然の一部だと言うことを忘れてはいけない。自然を壊すと言うことは、回りに回って自分たちまでも壊してしまう。自然があってこその私たちなのだ。また、「自然は沈黙の教師である」と言う言葉のように、自然とは人間にとって、自分たちを成長させてくれる最大のエネルギー源なのだ。