清書
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年月日
私の家にはやっと通れるくらいの路地に面している。私自身もコンクリートには飽き飽きしていて、道端に草が生えている風景を心ひそかに楽しんでいた。
ある秋、黄褐色に熟したエノコログサを眺めていると、隣の家のおばあちゃんが近づいてきた。
「ちょっと猫じゃらしをいただきますよ。お花の材料に。それにしてもこんなところに生えてくるなんてねえ」とおばあちゃんは感心している
。私はすっかり、隣の家のおばあちゃんに仲間意識を持った。翌春私の家の前にスミレが咲いた。ところがある日外出から買ってくるとスミレがない!
そういえば出がけにおばあちゃんがほうきとちりとりを持って立っていたので、あいさつを交わしたのだった。
清潔好きのおばあちゃんは、自宅の前から私の家にかけて丁寧に草むしりをしてくださったのである。
町中の雑草に対する人間の態度は時と場所によってさまざまである。
私は虫が苦手で、いなくなったらいいと思っている。なぜなら、けっこう小さいながらまるでジェット機のように速く動いたり、飛んだりするからである。
また、昆虫のぐちょっとした細かい部分の見た目もとても嫌いである。
だけど、修学旅行で行った博物館で、昆虫標本を見た時は、すごくきれいであり、こういうものが残しておきたいと思った。
なぜかいというと、まるで引き込むような模様や目を細めると見える細かいところが好きになったからである。
なぜか、昆虫のぐちょっとした細かいところが嫌いでなくなってほしいと思っているはずなのに、似ているとうか同じようなもののはずの
昆虫標本の目を細めると細かいところはすごく好きであり、残しておきたいと思った。なぜ、こういう矛盾が起きるのかはよくわからない。
また、これに似たような経験として、田舎などに行くとよく舗装がされていない細道を見る。こういうところに花が咲いていると、
「こういうのが一生あるといいな」と思ったが、いざその道を通ったら、転んだりぬかるみにあしをとられてし待ったので、
「はやく舗装してほしいなぁ」と思った。花があるのにもかかわらず、そのことはあまり気にせず、「早く舗装してほしなぁ」と
思った。このような経験は何度もあった。こういうところから、私は、人間は自分が美しいと思ったりしたものに対しては、優しく扱うのに対して、それ以外には、ずさんに扱う、身勝手であり非情なものだと思った。まさに、これこそ君子豹変。雑草も虫も、人間がよいと思うならば、残されるが、逆に自分に害をなすらなば、問答無用で伐採されたり駆除されてしまう。かわいそうなものである。しかし、かわいそうだとは思いながらも、
私自身こういうことをどうしたらいいのかはよくわからない。でも何かやったほうがいいのではないかとは何度も思った。私は人間の非情な身勝手さを直したい。
しかし私はどうすればいいのかはわからないし、そもそもそのような行動ができるかはわからない、それでも、私は人間の非情な身勝手さを直したい。
それが人間と動物や植物の共存の選択肢だと思うから。ただ自分に対する良しあしだけで判断はしたくない。相手のことを思いやりたい。