新聞というものをまるで読まない(感)
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年月日
新聞を読まない人もいれば新聞広告を見るのが最大の楽しみという人もいる。たいていの場合、私は新聞が一生懸命に論じようとしている主張の読み手ではないような気がする。新聞は縁日のようなものに見えてくるのだ。論説記事は神社の神主さんの祝詞のようなものであるとみている節がある。経済記事はおみくじ、政治、社会は小屋掛け芝居のようなものである。となると一番楽しいのは広告という名の夜店通りかもしれない。仲良く並んでいる小さな広告はチャーミングな店舗であるが全面広告のようなものは香具師じみているからレイアウトを楽しむが、眉つばものと流す傾向がある。演劇、音楽、催し、人などについて自分が知っているから隠れた意味が明らかになるような事実は、それらしくないところにあった方が良いのだ。そのため、本題からそれるのも大事だ。
第一の理由は、面白いからだ。例えば、タンポポとオニタビラコはおなじキク目キク科なのに、タンポポの綿毛には柄があるのに対しオニタビラコにはない。コオニタビラコやヤブタビラコに至っては綿毛すらなく種子のみなのである。また、オニタビラコという名はタビラコより大きなタビラコという意味で、コオニタビラコはそのオニタビラコより小さなタビラコという意味で付いた名である。しかし、タビラコというのはコオニタビラコの別名であるためよくわからないことになっている。でも、それもそれで面白い。ネコジャラシの別名を持つエノコログサもよく見てみると意外とかわいい。そういうものにも目を向けてこういうことを探してみてはどうか。
第二の理由は、本題がはかどらないからだ。駿台によると、人は60分連続で学習するよりも、15分勉強して休憩するというのを3回繰り返して計45分勉強する方が、学習効率がいいらしい。やり遂げなければならぬことを続けて長くやるよりも、その間に休憩という本題からそれることをするだけで本題が短い時間で片付くようになるのだ。本題だけをやっていれば一番いいように思ってしまうような気もするのだが、実はそうではないのだ。だから、学校の授業と授業との間にも集中力が途切れてしまわないように一時間ごとに休憩があるのだ。
確かに、本題からそれてばかりで本題を見ないと肝心のものができなくなるかもしれないが、「雑草とはまだその美点が発見されていない植物の事である」という言葉もあるように、わき道にそれて、そのものの良さを発見しながら本題をやっていくのがいいのではないか。そうした方が本題の方もより早く進むし気持ちも落ち着くだろう。それに、新たな楽しみも見つけられるだろう。やらなけれなならないことが行き詰まったりしたら自分がやりたいことをして楽しんでからもう一度やらなければならないことの方に戻ってみたりするのもいいのではないか。そうすることでより早くいろいろなことを終えることができるようになるのだとおもう。