本当の自然保護とは
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年月日
町中の雑草に対する人間の態度は時と場所によってさまざまである。作者の体験では、隣の家のおばあちゃんが挙げられている。秋、そのおばあちゃんは「お花の材料に」といってネコジャラシを丁寧に採っていった。しかし、私が気に入っていたすみれの花は、おばあちゃんの目には「雑草」としか映らなかったらしい。あっさりと引き抜かれてしまった。数年後には、自然豊かだった路地まで舗装され、私たちは地球のかけらだけでなく、何か大切なものまで失ってしまったように感じる。
私の家の前には、舗装されていない砂利道がある。その道には、仏の座やタンポポ、そして無論雑草など多くの植物が植生していて、春頃には桜並木となる美しい場所だ。今年の春頃、地面に小さく、可愛く咲いていた仏の座、胡瓜草を見つけ、母に見せようと持ち帰り、ガラスの剣山に差した。とても可愛らしく、仏の座の赤みがかった紫色が目立って綺麗だった。その後、また外に散歩をしにいくと、とてもかわいい花が咲いていて、なんの花だろうと近寄ってみて観察してみるとあの胡瓜草と仏の座だった。花瓶に入れて飾っている以前の花よりも、数段美しく咲き誇っているように見られた。「やはり野におけ蓮華荘」という諺もあるように、草花は、美しく見せるために良い品種ばかりを集めて飾ったり、品種改良するのではなく、本来のある姿が美しいのだ。
自然の生命力を侮ってはいけない、と父に言われた。以前、資源採取のため、二か所山を削ったそうだ。そのうち一か所は、「自然保護」のため、草木を人工的に植え公園にしたそうだ。しかし、人工的に植えたため、もう二度とその地から本来の植物が芽生えてくることはない。もう一ヶ所は、父の実家の裏山で、山の半分を掘削したそうだ。その後、崖のようになっていて危険だったので、放置されていたそうだ。十年後には緑が芽生えてきて、今では元の自然に近い状態にあると父は言っていた。これを聞いて私は、自然の生命力はすごいと感じただけでなく、人間にとっての十年は長いものだが、自然にとって十年は、今まで何億回も繰り返されてきた常識なのかと思った。今まで人間は生きるために木を切ってきたが、今でも自然が残っているのはこの十年が何万回何億回と繰り返されてきたからだと悟った。そんな自然の法則を知らない現代の人間が、良識だろうと自然を人間が変化させていい物ではないと感じた。
私の家の近くにはたまに鹿が出る。和歌山から海を泳いでくるということを聞いて、私は驚いた。そんなに遠くから来たなんて、想像もしていなかった。母はよく鹿を見つける。鹿を見つけるのはほとんど母だ。よく自然に目を向けているから、見つけることができるのだろうか。私は、鹿が暮らせるような自然豊かの土地や汚染されていない海、そして自然に目を向けて観察できる人間が、未来にもあってほしいと願った。
人間にとって本当の自然保護とは、新しく人工の自然を作ることではなく、今ある自然を大切に見守ることである。そして大切なことは、自然を今一度きちんと観察してみることだ。私はこれから、母のように自然に目を向け、自然を見守るという意識を高く持っていきたい。