いのちに感謝
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年月日
「いただきます!」
私は食べることが好きだ。パンかご飯かと聞かれると、ご飯と答えることが多い。和食のご飯はおかずを引き立てることもできるうえに、ご飯だけで食べても噛むうちに甘みが出てきたりして、味の変化が面白いからだ。自分で米を炊くと、よりおいしくなるため、私は米を炊くことが好きだ。今年、小学校の家庭科の授業で、炊飯の仕方を習った。
米を炊くのは簡単なようで難しい。家庭科では、鍋を使って炊いたが、いつも炊飯器がスイッチを押すだけでやってしまうことを、人の手で行うのは難しい。強火で水がふきこぼれるまで、こんな香りがして、あんな音が鳴れば中火から弱火へ、などと、五感を使って火加減や時間を調節する。大体の基本の時間の目安はあるが、ほとんどは耳・目・鼻で行う。それは案外難しく、タイミングが命だ。ほかのことに気を取られているともう水が吹きこぼれていたりする。私の父はお米を土鍋で炊くことにこだわっていて、お米と水の比や、火加減、時間を調節して、一番おいしく炊ける方法を見出したらしい。でも、私は自分の作ったご飯の方が、もちもちで、甘みもありおいしいと思った。自分で作ったからというのが要因だろうが、ほかにも原因はある気がする。それを考えていくと、『私のほうが五感を研ぎ澄ましていたから』ではないかという結論にたどり着いた。父は一度に二つ以上の料理をつくる。そのため、私のようにずっと鍋を見つめているわけにはいかないのだ。父はタイマーを使い、5分経ったから中火へ、などと調整しているのだろう。きっと、タイマーを使う中での一番美味しく炊ける、限界なのだろう。やっぱり米を美味しく炊くには、五感が必要なのだ。それどころか、五感を使っても少しの差でおこげの量や、水分の水具合まで変わってくる。まるでお米は赤ちゃんのようだと思う。なぜならずっと見張っている必要があるし、火加減や育て方によって味(中身)が大きく変わってしまうからだ。
実際、米は『赤ちゃん』のようなものかもしれない。死んでしまった『いのち』だといえると思う。少し前、理科で『いのち』の単元のまとめの時に、理科の先生が言っていたことがある。
「いただきますっていうのは、人間のために死んじゃったいのちに感謝するっていう意味。ごちそうさまは、作ってくれた人に感謝するっていう意味なんです」
と。私にはその言葉がとても心に響いた。私は今までその意味を知らずに、作法だと思い軽い気持ちで行っていた。また、その意味を知っていた友達も、、口だけだったかもしれないと反省していた。大抵の人が、大事なことなのに、意味を知らなかったり、意味がこもっていなかったりしたのだ。私たちのせいで死んでしまったのに、感謝もされないのわ不憫だと思う。
一人の生は万人の死に支えられるということわざがあるように、私たちが生きるために多くの動物や植物が犠牲になっていることが分かった。だから、これからは『いただきます』に思いを込めて、死んでしまったいのちに感謝して美味しく食べたい。
私は手を合わせて「いただきます!」と言った。