中庸
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年月日
今日では、道徳的共同体を潰してきた法的社会が普通の社会となり、国家となっている。しかし、共同体が完全に潰されてしまったわけではない。共同体意識が、今も人々の間にしぶとく生き続けている。孔子は、葉という小さな街に流浪していた時、自分の父親の犯罪を証言した正直な息子を批判した。法的社会が形成されて以後、共同体との関係という厄介な問題を抱えこんできて今日に至っており、いまなおその解決方法に苦しんでいる。共同体の指導原理は、道徳であるから、指導者はその条件として道徳性を身につけなければならないのだ。私は法だけでなく人間関係の両方を大切にする生き方をしたい。
そのための方法としてまず、言い方を工夫することだ。
私は今年で引っ越してから3年が経つ。地方で過ごす時間が長くなると、周りの人はみんな方言で喋るので、つられて方言が出ることが多くなった。北九州弁は語尾に「ちゃ」とつけたり、例えば「だから」を「やけ」と言って短くしたりするので、普通に話していても口調が強いと感じてしまう。私もつられて言ってしまうことがあるが、所詮エセ方言なので正しく使えていない。おそらく偽物感に加え、ただ言葉遣いが荒い人になってしまっていると思う。実際、友達だけでなく先生も怒る時やからかう時には○○さんと名前を呼ばずに「あんた」と呼ぶ。標準語を話す私からすると、口調が強く少し怖く感じる。しかし、西日本では方言らしく、親しい相手などに使うそうだ。こういった使い方の違いがあるため、つい出てしまった私のエセ方言が正しい使い方なのか、ただの悪口なのか分からなくなってしまう。気づかない間に友達を傷つけてしまっているかもしれない。だから、最近は綺麗な日本語の標準語を使うように心がけている。
また、第二の方法として、相手の立場に立って考えることだ。国語の授業で、安楽死の是非についてのディベートをした。賛成派と反対派に分かれて準備をするとき、私は賛成派の立論をつくる担当になった。立論をつくるとき、自分が反対派だったらこういう意見を言うな、こういう反論があるな、と反対派の立場に立って立論を考えた。本番のディベートは、質疑応答も反論もほとんど想定内のものだったので満足して終わった。中学一年生のときに、自分と友達との認識のすれ違いで喧嘩になり、今もあまり話せていない友達がいる。時間が経って考えてみると、相手の気持ちや自分がどう見えているかなど周りに対する配慮が足りていなかったなと反省している。なので、この時に学んだ相手の立場に立って考えるということを、これからの交友関係に活かしていきたいと思った。
確かに、関係性を重んじるとルールや原則が後回しになり、不公平やえこひいきが生まれやすくなるだろう。しかし、「徳とは過不足の中間にある」という名言がある。また、孔子の中間や中途半端ではなく、その時々において常に最善のバランスを保つ、高度で実践的な思想を指す中庸という考え方がある。私はここから、法と人間関係を両立して、どちらも大切にして生きていきたいと思う。