どんな理路然とした方法論に(感)
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年月日
どんな理路然とした方法論につらぬかれていても、もしその歴史書がその時代の生きた人間の活動を読者のまえに形象化するだけの力をもたなかったならば、それは死んだ歴史叙述だ。そういう意味では、歴史は学問と芸術とのちょうど接点に位置しているといえるだろう。日本では残念ながら歴史叙述がはなはだすくない。歴史と現代とをつなぐくさびはいうまでもなく人間だ。日本にすぐれた伝記がきわめて乏しいという事実になによりわれわれの人間観察力のにぶさがあらわれているのではないだろうか。日本の法律・政治・経済の学者たちはあまりに専門的に分化し、他方あまりに理論の整合性をよろこびすぎて、人間をトータルに把握するという、いちばん平凡な、しかもいちばん脱間のことを忘れていたのではないだろうか。日常生活のなかでたえず自分の学問をためしてゆくことによって、学問がそれだけゆたかに立体的になり、逆にまた自分の生活と行動とが原理的な一貫性をもってくるだろう。今日の学問は、社会の問題に取り組むよりも、学問自体を目的としている面があるのではないか。
それは、一つには、学問の内容自体が膨大になり、全体像がつかみにくくなったからである。私も、高校生になってから急に学ぶ教科が多くなり、学校の勉強に追いつくことが難しくなってきた。学校が家から遠いため、普段から勉強しようとしても、他の教科の宿題に追われたり、部活動があったりして、どのようなやり方をしてもキャパオーバーになってしまう。確かに家庭科や現代国語、英語などは将来役に立つかもしれない。しかし、数学や古文などは社会に出たとしてもどんなことに使うのかさっぱりわからないため、なんのためにこんな事を勉強するのかという疑問をいつも抱いている。今の日本の教育は、質より量をとっているとしか思えない。
また、もう一つの原因としては、これまでの社会が、経済成長に役立つ分野以外に、学問の役割をあまり期待していなかったからだということもある。生物は長い歴史の中で少しずつ進化している。人間にもかつて、尻尾があったらしい。しかし不要とされ、現在の人類には尻尾はない。このように、不要とされるものや、役割を期待されていないものは、消滅するのである。
確かに、学間には、その時代の社会の必要とは独立した意義もある。しかし、学問、特に社会学とは、社会についての学問ではなく、社会のための学問でなければならない。「塵も積もれば山となる」という。しかし、大事なことは、しっかり意味のある塵を積もらせられるかということなのである。