無関心は味方かもしれないが

    ()  年月日

 小学校一年生というと、まず「はい、はい」とツバメの巣のような教室から出発するのが常識だが、四月から一言も口を開かない一年生の教室が、いくつかの学校で見られるようになった。この沈黙の背後には、もちろん陰湿ないじめが潜んでいる。それだけではなく、他者への無関心というのも関係している。

もっと他者との関りをもつことだ。

そのための第一の方法は、周囲に困っている人がいても他人事として捉えるのではなく自分事として捉えることだ。

自分事として捉えるには他者に対して興味、関心をもつことが不可欠である。たとえば、満員電車に杖をついたおばあちゃんが乗ってきたとき、ほとんどの人がそのおばあちゃんに視線をむけるだろう。そして、足が不自由なのに、満員電車で立っていられるのか、電車の揺れで倒れたりしないかと心配するはずだ。そこで、席に座っている何人かのひとが、おばあちゃんに席を譲ろうとするはずだ。日常生活でよく目にするこの光景がまさしく、困っている人を他人事として捉えずに自分事として捉えたことが関係している。一方で、もし満員電車に女子高校生が乗ってきたとき、誰も彼女には席を譲らないだろう。彼女が、部活動で大けがをしていて満員電車で立っていることが困難だったとしても。高齢者や子供もなど社会的弱者として位置づけられている人々が困っていたら助けようとする人は多いだろうが、社会的弱者ではない人が困っていたとしても助けようとする人は少ないと思う。しかし、困っている人が、社会的弱者かそうじゃないかは関係ない。困っている人がいたら無視するのではなく助けることは大切である。助けるという行動を起こす起源となるのは、自分事として捉えることにあると私は思っている。

また第二の方法では、学校教育において団体戦で行う行事を増やしていくべきだ。

徒競走や幅跳びといった個人種目は、自分がどれだけ速く走れるかであったり、どれだけ高く、長く跳ぶことができるかが大事である。しかし、団体種目となるとそうはいかない。自分がどれだけできたとしても、周りの人が出来なかったら勝つことはできない。団体、みんなで頑張らなければならない。そのため、その種目が苦手な人を野放しにすることは負けにつながる。苦手な人や、出来ない人をほおっておくことが出来ないようになっている。そうなると、人は嫌でも他人に関心を持たなくてはならない。学生時代に培った他人に関心を持つ癖というのは、将来仕事をするにあたって使えるとおもっている。一緒に仕事をする人がどんな人かある程度分かっていなかったら円滑仕事を進めれるわけがない。他人に関心を持つことのメリットは以上のことだけにとどまらず他にも沢山あるはずだ。だから、学校では団体戦を行う行事を頻繁におこない、小さいころから他人に関心を持つ癖をつかせる必要がある。

確かに、誰にも他人干渉されたくないことがあるはずだ。そのため、人から関心を待たれたくないし、持ちたくないと思う人がほとんどであると思っている。しかし、ここでいう関心というのは他社に対して深入りするというのではなく、困っている人がいて、助けを必要としていたときに、助けられる人になるために少しの関心を持つということだ。誰もが、過ごしやすいと思える社会をつくるには他社に対して関心を持つことが大切である。