冷たい科学
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年月日
いわゆるシンギュラリティという言葉が単に空想のものではなく、現実味を帯びてきている現代において、果たして人間は科学技術の暴走を抑制する力を持ち合わせているのだろうか。私が今こうしてこの作文を執筆している、パソコンでさえ、詳しく原理を理解できるものが数少ない人間しかいないように、我々は発展という名によって巧妙に隠されている暴走を止めることができていないのである。
それは、もはや科学という分野の全体を俯瞰して理解することができないほど、この学問が先鋭化していしまったことに一つの原因がある。19世紀初頭より始まる量子力学と、クローンを生み出すことを可能にした生物学は、同じ自然科学分野に分類されてしまうように、全くと行っていいほど異なる分野が、すべて同じ学問としてカウントされているこの現状で、科学の全体を把握できる人間などいないのである。どこか一つの分野が暴走を始め、それが人間社会に危害を及ぼすものとなったとしても、それを止める術を人間は持ち合わせていない。各分野を超越した包括的な知見がなければ、このような未曾有の事態に対応することはできないのである。安全神話を築き上げていた原発が、たった一度の災害により、人間の手には負えないガラクタと化してしまったように、もはや科学は人間には制御できないものになりつつあるのだ。
それに、冒頭に述べたように、我々が普段利用している科学技術の結晶とも呼べる文明の利器たちの原理を、大多数の人間が理解せずに使用してしまっていることも原因だ。シンギュラリティ後の人間社会がどうなるかという記事を読んだことがある。人間はAIが生み出す原理が理解できない技術を利用することで発展していくことになる、と。かろうじて一部の技術者と学者による厳密な論理体系により守られてきた、原理の理解という大前提が崩されてしまえば、我々がその技術を止める術を見つけることもできなくなるということだ。理解せず使用する、これが一体どれほど人類に影響を与えることか。先人から脈々と受け継がれてきた、学問という人類の知恵の結晶が、言うなればガラクタに過ぎないものが生み出す技術にすべて取って代わられてしまうのだ。知恵の実を与えられた人類という種の敗北、という側面もあるかもしれない。
科学技術の原理や全体を俯瞰してみることなど、できる人間のほうが少ない、というよりは存在しないため、我々が科学に対して盲目で有り続けるのも致し方ないのかもしれない。しかしながら、あの忌まわしき原発事故から15年が経過しようとしている今、科学の暴走を身近に感じる我々が、このまま後世に現代の負の遺産を残してよいのだろうか。科学を発展させてきたのが人間ならば、その暴走を止められるのも人間しかいないのである。クローン技術が登場したとき、その防波堤となったのは人間としての倫理観であった。情緒を持ち合わせないAIが技術を作り始めてしまったら、どんなに非情な世界ができあがってしまうのだろうか。我々が人間である以上、情緒による暖かさで冷たい科学の暴走を止めていかなければならないのである。