有意義な子供時代の過ごし方

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 学童の遊びには想像力や抽象思考力が入り、多彩なものになる。これらはおそらく、後の対人関係の基盤を作る力を持っているのだろう。その後成長していくと、ルールが加えられたゲームを始める。いわば面白いモデルだったルールが成長に合わせて、おかすべからざるもの、そして最終的に自分で自分に課したものと大人の考え方になっていく。私たちの幼少期の遊びは社会性や想像性の獲得だけでなく、創造的活動や感受性、 空想力へと繋がっていくのだ。

 確かに子供時代の遊びから得るものは多い。子供の頃の感覚的な遊びは一見対照的に捉えられやすい「学習」や「集中」と密接に関係していると私は考える。私の幼稚園では自然遊びが盛んに行われており、五感を常に活用し、夢中になって遊べる環境が用意されていた。例えば公園の木の葉の色や形、感触を知ったり、木の葉同士がこすれる音に耳をすましたりするプログラムや、竹や木に登る遊具を通して国内での一日を満喫していた。また、多くの幼児が行う泥団子作りであっても、常に砂の触り心地や音に興味を持ちながら、つまり五感をフル稼働させながら日々過ごしていたことを覚えている。小学生になり、こうした自然との密接な関係は少なくなってしまったものの、振り返るとこれらの幼少期の多様な体験が今に繋がっていると感じる。何ごとにも好奇心を持ち、集中していた思い出は、様々な問題に興味を持ったり、教科ごとに没頭して勉強に取り組んだりすることを支えていると言える。子供時代の遊びが充実するほど、人生は充実する。つまり、子供時代の遊びは人生の土台となるのだ。



一方、勉強しなければ身に付かないものがある。それは一言でまとめると学力だ。「読み書きそろばん」の時代からその大切さは言われ続けているように、私達には生きていくために最低限学ぶべきものがある。この学力は子供時代の遊びでは学び取ることの難しい技能だ。有名な昔話「アリとキリギリス」でも同様のことが言える。夏の間、歌ばかりを歌って暮らし、何もしてこなかったキリギリスだが、冬になると食料に困り、働き者のアリに分けてもらおうとするも失敗する。そんな両者の対照的な行動と結末が印象的な物語である。確かに幼少期のうちに遊んでおくことは感情の広がりや思考力を育むために重要視すべきものである。しかし、生きるための知恵、つまり学力がなければその豊かな感性を生かす機会は狭められてしまう。机上の学習ばかりでは良くない、という話は有名だが、遊びばかりでもその後に人生で苦労してしまうのである。つまり、勉強することはこの現代社会で生きることに直結しているのだ。

確かに、子供時代には、遊ぶことも勉強することもどちらも大切だ。しかし、最も大切なことは、どんな体験からも何かを学ぼうとする姿勢だ。「経験とは、個人に起こったことではない。起こったことに対して、その人が何をしたかである。」という言葉がある。子供時代は人間としての力が形成される大切な期間である。確かに私達が人生で一度の幼少期でできることは限られているが、その感じ方や着眼点は無限大の広がりを持つ。私もこれから行う一つ一つの体験に対してより自分らしく生きるためのヒントを積極的に学び取っていきたい。