共同体的

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 今日では、道徳的共同体を潰してきた法的社会が国家となっているが、依然として最小単位の共同体の家族は残っている。法的社会と道徳的共同体との関係は、いまもってなかなか善悪の判断の難しい問題を抱えているのである。道徳政治を主張したのが儒家であり、その組織的理論化や理論的指導を行なった最初の人が孔子であった。法的政治を主張したのが法家であり、その方式に基づく大政治家が、秦王朝をたて始皇帝である。

 私は共同体的な生き方をしたい。

 その方法として第一に、人のあたたかさを忘れないことだ。

 アメリカの不法移民対策によって駆り出されるICE職員を見ていると、大統領令の持つ力の大きさを感じざるを得ない。

 移民に関するニュースを見るたびに、第二次世界大戦中、強制収容所へ送られた日系人の人々のことを思い出す。彼らの多くはアメリカ市民であったにもかかわらず、敵とみなされたのだ。

 一つの命令によって、1日にして自分を取り巻く環境が変わるという経験は、人にとって忘れられない恐怖となるだろう。

 何より恐ろしいのは、社会の中で共に生きていた人々が、政府の方針によって敵として扱われてしまうことである。昨日まで隣人や同僚として助け合っていた人々の関係が、政策や不安の矛先によって分断され、壊れていくことが今起こっているのだ。

 だからこそ私たちは歴史から学び、人と人とのつながりを意識し続けなければならない。

 現実としてアメリカの食卓を移民労働者が支えていることも忘れてはならないように、昨日まで助け合っていた仲間であることを忘れず、人のあたたかさを失わない社会であってほしい。

 第二はルールを超えた優しさを受け入れることだ。

 小学3年生の時、先生のためを思って教卓の中を整理したことがあった。自分は良いことをしたと思っていたら、先生は名乗り出なさいと言われたため、私がしたと告白すると注意を受けた。あとで話を聞くと、生徒に教卓を触らせてはいけないという指示があったそうだ。だが、教卓の中には授業のプリントしか入っておらず、私はただそれを種類別に整理しただけだった。優しさの行動が否定され、すごく悲しかった。人の優しさが、マニュアルやルールに負けてしまうのはあまりにも残酷である。何も疑わずに従うのではなく、その人を自分の目で見て判断するべきではないだろうか。私たちの世界は優しさと助け合いで成り立っている。それを一人ひとりが理解して、社会に反映させることでよりあたたかな世界になると思う。

 確かに法律は社会の秩序を保ってくれる。

 しかし、「デモクラシーとは、奴隷にも主人にもなりたくないということである」という言葉があるように、私たちが皆対等な存在として話し合い、助け合いながら生きていく社会こそが、私の考える共同体的な生き方だ。