私の家は自動車が(感)

    ()  年月日

 筆者は、家が面している路地は三年前までさまでまな人や散歩道として利用されていたそうだ。都内にはめずらしくほそうされていず、道ばたには草がはえており、敷地からは

み出した樹木の茂みが路上に目かけをつくっていたのである。しかし、数年たって路地全体に異変が起きた。下水道工事が始まり、下水道がこわれぬようにしっかりとほそうされ、ネコジャラシにスギナ、スミレもタチイヌノフグリもそれ以来路地から姿を消してしまったのだ。また、町中の雑草に対する人間の熊度は時と場所によってさまざまであるという。ハイキングに行けば、緑がいっぱいで気持ちがよいと喜ぶ人も、自分の庭に出てきた雑草は血眼で引き抜いてしまうのだ。

 私が小学五年生のとき、学校のビオトープがきれいにそうじされていた。今まで、そこは岩と岩のすき間から水がわきでていたりコケや雑草などの植物がたくさん生えていたりと、都会では感じされない自然の美しさがビオトープにはあった。心細かったり、さみしかったりしたときにビオトープにいると、落ちつくことができた。そんなビオトープは私たち学校の生徒にとって、宝物のような場所であった。自然を感じられるコケや雑草が駆除されてしまった。今は前に比べてすっきりとしたが、都会に住んでいる私にとって自然の美しさを感じられなくなってしまうことがとても残念であった。私はこのことについて、まだ後悔している。

 母によると、最近は雨不足で山火事が発生しているが、山の自然が破壊されると土砂くずれが起きたり、海へ流れる栄養が少なくなったりして良くない影響を及ぼしてしまうという。そのため、コナラの木を植林するボランティア活動をしたいと思っているそうだ。コナラの木は「ナラ枯れ」という病気が流行っていて、コナラの木が少なくなると、どんぐりが減ってしまい、クマの食料が減ることで、人里に下りてくるクマが増えることにもつながるため、植林をしたいという。こう言うと、自然を愛する高尚な人間かと思われるけれども、実際はスギ花粉アレルギーを持っているため、少しでも山のスギの本数を減らして、アレルギーのないコナラの木で森を埋め尽くしたいという、目論見も少なからずあると言っていた。これは自分のメリットのために自然第一ではなく、自分の都合がいいように動いているのだ。花粉アレルギーである私はスギやヒノキがあったら幹をなぐり倒したくなるぐらい、春になるとスギやヒノキは余計なものとしてとらえてしまう。まるで勉強のじゃまをしてくる男子のようにイライラてしまうのだ。

 父によると、ヒノキはヒノキ風呂で使われるなど、人の心をいやすこともあるが、春になると、花粉アレルギである父にとって、ヒノキ花粉が飛び始めるため、植物の中で一番じゃまな存在になるという。いつもは

「ヒノキ風呂っていいね。」

とヒノキに対して良い印象でとられるが、花粉がとぶ時期になるとヒノキがいらない存在になってしまうそうだ。このことについて私は、ヒノキ風呂という、人間にとって都合のよいことは良い印象に、都合が悪いことは悪い印象になっているのだと思う。これによって人間は都合に合わせて自然を破壊してしまっているのだ。

 「人は見かけによらぬもの」ということわざがある。これは外見で判断してはいけない。中身には予想外の美しさや価値があるという意味だ。また、「天の上に人を造らず人の下に人を造らず」という、福沢諭吉が学間のすすめに書いた言葉がある。人は皆平等であり、生まれながらの身分や貧富の差はないという意味だ。これらの言葉は植物も同じように言えると思う。自然とは人手を加えない、ありのままの状態のことである。自然保護とは、生物多様性、生態系、景観を破壊から守り、適切な維持、管理を行う活動のことだ。自然は人間にとって心をいやしてくれる大切な存在だ。また長年生きている植物は人間の先輩でもあると思う。これからはリデュース、リュース、リサイクルの3Rを行うなど、自然保護に貢献できるような行動を積極的にしていきたい。