法的倫理は悪か?
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年月日
より法的、平等的な生き方をしたい。
そのためには第一に、自分の意見を持つことだ。先日、テレビをつけたらちょうど参議院の予算委員会が中継されていた。各自が一切妥協せず自分の意見をぶつけ合っていてとても良いと思った。現在、日本では間接民主制が採られている。これは、国民が自分たちの代表となる議員を選挙で直接選び、その議員たちが国会で政策について議論し決定、実行するという方式だ。そうすることで国民の意思がある程度反映されるわけである。また、議員も国民の期待を背負い、自分の意見をしっかりと通さなければならない。
しかし、もう少し規模を小さくしてみてみると、この「自分の意見を持つ」という段階が踏めていないまま、議論に進んでいる例が多々あると感じる。例えば、小学校や中学校のクラスの学級会などだ。特に新学期では、係を決めたり、当番を決めたりと様々な決定を限られた時間内で行う必要がある。そのため、早いテンポの中候補者の公約や意見をよく呑み込めないまま多数決に進み、結局「友達だからこの子に投票しよう」となることがある。ただ、最近では学校の授業や探求学習において、仲間同士での話し合いや意見交流を中心とした方針が取られているという。自分の意見を軸とし、よく考えることが必要である。
また第二に、法による支配を徹底することだ。よく、刑事もののドラマを観ていると、「自分の家族や友達が犯人だと思い込み、それを隠すために隠蔽工作を行う」という、ある意味事件を攪乱させている人物がよく出てくる。「この人を失いたくない」という強い思いは素晴らしいものだが、だからといって犯した罪をなかったことにはできない。もちろん、そうせざるを得なかった特別な場合は別だが、誰であろうと罪は罪であり、反省して償うことが重要だ。
また、本文で身内の不正を告発することの是非が問われていたが、私は誰であっても不正は見逃さず届けるべきだと思う。例えその不正をしたのが親しい人であったとして、自分が見逃してもその人は不正をしたことには変わりない。良心の呵責に悩むかもしれないが、不正は誰であっても不正であると言い切れるようにしたい。
確かに、相手の意見に合わせる、親しい人をかばうといった共同体的な考え方も大切だ。しかし、「悪いことそのものがあるのではない。時と場合によって悪いことがあるのである。」ということわざもあるように、法を整備し、それに則って平等的に生きていきたい。