清書
中3 あんじゅ(aenoyo)
2026年3月4日
遊びの中で、創造性が発揮されると創造的活動にまでつながる。子どもの多くが詩人的素質を示すのも、彼らの新鮮な感受性と奔放な空想力が発達するからであろう。
子どもの頃の遊びから得るものが多い。私は、小さい時鬼ごっこをするのにハマっていた。幼稚園の頃から、教室内で友達と走り回っていた。私は、小さな頃は鬼役よりも逃げる方が好きで、いつも逃げていた。逃げる方が、鬼に捕まえられるまでの時間がドキドキしていて鬼ごっこの醍醐味を感じているように感じていたからだ。鬼は、私を捕まえる時、優しく捕まえてくれる。よくやっていたのは変わり鬼だったので、私も逃げる人をタッチする瞬間がある。その時、私は何も考えずに友達にタッチしていた。特に意図もなく、勢いに乗せたまま叩いてしまっている感じだった。だが、小学生になってから鬼ごっこで遊ぶ時あることに気づいた。みんな逃げる方を確保する時は、優しく叩いていたのだ。私は、そんなこと全く気づかなかったので、その時ハットした。自分が一体どれぐらいの強さで相手をタッチしていたのかもわからなかった。もしかしたら、他の人に比べて強引にタッチしていたのかもしれない。そう思い、それからは優しく触れるようにした。私は、この鬼ごっこで相手に触れる時は優しく触れることを知った。それからは、人を強く叩いたことはなく、友達を呼んでも気づかなかったり、寝ている子を起こしたりなどの必要なとき以外は人に触れないようにした。鬼ごっこをしていたことで、社会の新たなルールを知れて、今振り返ると良い出来事だったと思う。
しかし、勉強しなければ身に付かないこともある。一休さんのお話では一休さんという青年がお坊さんになるお話だ。一休さんは、このお坊さんになるときにたくさんの修行や学習を行っていた。その後、殿様からの意地悪で、「このはしを渡るな」と書かれている時は、自分の知恵を振り絞っていた。最終的に、橋の端ではなくて、真ん中を渡ったというのが有名だ。一休さんが、勉強していなくて、ただ、お坊さんになろうとしていても、勉強していなかったのなら、結局意味がなく、殿様に嫌われたままになってしまっていただろう。しっかりと勉強したからこそ、「はし」にはいろいろな意味があることがわかり、対策をして、橋を渡ることができたのだろう。お経を読む訓練の中で、様々な言葉の勉強もしていたのだろう。何事にも、懸命に集中して、やりこんでいたからこそ、ピンチの際に頭を使って乗りこえることができたのだ。賢くて、何事にも一生懸命に頑張っていたからいくつものピンチを乗りこえることができたのだろう。
遊びから学ぶことも、勉強することで蓄積する知識も大事だ。だが、最も大切なことは自分の興味や関心を持ったことを生かすことだ。自分がもっとも輝ける場所で様々なことを学んでいくことが大切なのだ。自分が興味を持ったり、関心を持った物事や、集中したり、夢中になれることができると思った場所で社会を,生きて行く上でのルールを学ぶといいと思う。自分のやりたいことをしながら、世の中のことを学んでいくと素晴らしい環境が整うだろう。自分に合わないことをわざわざして、無理をしてもやる気が出ないだろう。わざわざそのような場所に行きたいとも思えない。だからこそ、自分の個性や好きだというものから学ぼうとすると、スルスルと体の中に入ってくるのだ。「人間は好きな仕事ならば、どんな苦労も厭わない」という名言があるように好きなことを自分の身近なものにする、それがもっとも楽しく、世の中の基本などのことを学べるだろう。自分が、好きなことから生活して行く上での基本を学ぶと新たな発見や、知識を得られるのだ。