画面という擬似体験

   中1 はる(akiiko)  2026年3月4日

 画面という擬似世界

 この市場へ行く道は、いかにも自然発生的な細い優しい道だ。家と家との間に何となく作られた人間のふみならした道だ。ところが、その道は最近アスファルトが敷かれてしまった。夏の日など、かごを下げて歩いてみると、いかにもむんむんして照り返しがきつい。それに何とも風情がなくなった。もちろん舗装された道も場合によっては大切である。ほこりを浴びせかけられる街道筋の家などは気の毒で見られない。一刻も早く舗装しなければ、道筋の家は窓も開けられない。だが、道が一番道らしいのは、人間の暮らしをあたたかに支え、色々なものを発見することのできる踏み締められた道である。このことだけは忘れてはならないのだ。

 かつて日本人は花鳥風月という言葉があるように、四季の移り変わりを愛で、自然と共に生きてきた。しかし現代の私達の視線の先にあるのは、険しい山々や、澄んだ川ではなく、スマートフォンなどの画面だ。便利さを追い求めた結果、私達は自然という「思い通りにならないもの」を遠ざけ、整えられた「人工的な世界」の中で満足している。

 私の日常も、その例外ではない。放課後、周りの友達が夢中になるのは、風が透き通る公園ではなく、中毒性のあるゲームやスマートフォンだ。画面の中はとても鮮やかで、冒険の舞台はどこまでも広がっている。だが、そこには風の冷たさも、草を踏んだ感触もない。指先一つで思い通りに動かせるこの世界は、あまりに都合がよく、そしてどこか冷たい。まるで擬似体験だ。このように、友達や周りの人が、現実とは程遠い世界に逃避してしまったのには一つ、思い当たる理由がある。私のマンションの中庭は自然で溢れており、のっぽに成長した木、場所によって硬さが違う土、元気に伸びていった草、丁寧に手入れがされている植木。この中庭は、さまざまな緑で埋め尽くされている。私達はその緑と共に、すくすくと成長していった。だがある日、折れた枝や足跡のついている土を見て、マンションの管理人さんは即座に子供たちに注意した。

「ここは遊ぶ場所ではない。自然を大切にしなさい。」

この話はみるみると広まっていき、中庭で木登りする人も、花の蜜を吸う人も、鬼ごっこをする人も、いつしかいなくなっていた。それからだんだんと、ゲームやスマートフォンに没頭するようになっていき、今は放課後、友達同士で集まったとしても、視線は友達ではなく、画面に釘付けだ。私はスマートフォンを持っていないし、ゲームにも「一時間」と短めな制限時間がついているため、あまり「中毒」という形までにはなっていないが、周りの行動などを見ていると、いつ私があのようになってしまうのかが、不安でしょうがない。

 今時、昔遊び場だった所が綺麗な住宅地へ変えられてしまうことも少なくはない。もしも「ドラえもん」が現代の話だったら、みんなの集うあの空き地はなく、たくさんの作られた遊具のある公園で、スマートフォンなどを使いながら話が進んでいってしまうだろう。町が便利に作り変えられる中で、自然は切り取られ、私達の五感を刺激する場所は少しづつ消えていった。調べたことによれば、こうした環境の変化は、私達の心から、「自然を感じる力」を弱めてしまうという。

 もちろん、ゲームやスマートフォンなどの人工的な環境が、すべて悪いわけではない。それは文明が進んだ証拠であり、私達に新しい楽しみを与えてくれる。しかし、どちらか一方に偏るのではなく、バランスを考えることが大切だ。そして、失われつつある「体で感じる感覚」を、取り戻す必要がある。

 自然とは人間にとって、自らの生命の根源を再確認するための鏡である。ゲームをはじめとする人工的な娯楽は、一時の昂揚と利便性を与えてくれるが、現実の重みや手触りを希薄化させる。だからこそ、我々は画面という擬似世界に埋没することなく、あえて不自由で過酷な自然の中に身を投じ、感性を研ぎ澄ませなければならない。それこそが、本当の意味で「生きる」ということなのだ。