端的に考えた裏側に

   中1 あきゆれ(akiyure)  2026年4月2日

 ふだん私たちは、コインを丸いものとみなしている。それは決して球形ではなく、正確には円盤形のことだと、誰でも承知している。コインが自然に安定しやすい姿勢で置かれているとき、人間の視線の自然な角度から見ると、丸いからだ。しかし、コインを水平方向から眺めれば、明らかに薄い長方形に見えるはずだ。価値の多様化を引き起こすレトリックとは多角的なことばによって表現してみることであり、発見的な認識への努力に近い。私もすべての人が同じ視点からものごとを語ることは、社会で生きていくにあたって、とてもさびしいものであると考える。皆が違う意見を持ち、それを尊重するのが世界にいるたくさんの人間がとるべき行動だ。そのようなレトリックのように、物事を多角的に見ることに私は賛成である。

 理由は第一に、多角的な考えによって、物事の本質を見抜くことができるからだ。以前、私は仲良しの友達と大喧嘩をしてしまった。私は日曜日、その友達と一緒に遊ぶことになっていた。友達は集合時間になっても集合場所に来ず、二十分遅れて来た。私は「友達はルーズだ」と決めつけて、つい怒ってしまった。私は怒りが収まらず、そのまま帰ってしまった。帰ってから、友達の立場になってなぜ遅れたのかを考えた。「実は何かトラブルがあったのか。」「優先順位があったのか」など、考えられる理由は様々だ。後から、自分は相手の事情も知らず、端的に決めつけてしまったことで喧嘩が起きたのだと気がついた。このように、なぜ喧嘩が起きたのか、本質を見抜くために、多角的に見ることが大切なのだ。

 理由は第二に、レトリック感覚があると、自分でも分からなかったことについて新しい発見があるからだ。先ほど挙げた実例で、なぜ自分の怒りが収まらなかったのかを考えてみよう。単的に言うと、「遅刻をされたから」である。これを深掘りすると、「時間を無駄にされたから」、これをまたさらに深掘りすると「自分の存在を大切に扱われていないと感じて悲しかった」という、自分の本当の心境が分かる。私は怒りの正体は「遅刻」ではなく、「承認欲求や尊重が満たされない寂しさ」だと気づくことができた。私は友達にこのことを伝え、謝った。友達も謝まってくれ、また仲良く遊ぶようになった、「多角的な視点」とは人生を豊かにする武器である。

 しかし、時と場合によって多角的に考えたほうがよいのか、一つの方向から考えた方が良いのかを考える必要がある。大袈裟な話になってしまうが、自分の生死がかかっている時、流石に多角的に考える筋合いはないだろう。何が何でも自分の命が最優先だ。このように、一方的に考えることは悪いことではない。皆さんは、「フィルターバブル」、「エコーチェンバー現象」という言葉をご存じだろうか。これは、SNSで「見たい情報」だけを表示し、「見たくない情報」を遮断してしまったり、自分と似た意見の人たちだけで交流し続けたりすることで、自分の意見が正しいという確信がどんどん強まっていく現象である。これはインターネットが発達している今、とても深刻な問題になっている。自分が「偏った情報を見ている」という自覚がないまま、反対意見を持つ人を「敵」や「悪」と見なしてしまうという、とても恐ろしいものである。確かに物事を一つの視点で深く理解することも大切かもしれない。しかし「雑草とは、まだ、その美点が発見されていない植物のことである」という名言がある。一つの方向から物事を見るよりも視野を広げたほうが、新たな発見をすることができる。私たちは今、自分の正義だけが反響するエコーチェンバーの中で生きている。しかし、その心地よいバブルを突き破り、あえて不都合な他者の視点に立つことでしか、物事の本質には触れられない。あの日の大喧嘩は私に「正しいことの向こう側にある真実」を教えてくれたのだ。私はこのように多角的な視点で、視野を広くもつことは良いことだと思う。