技術の進歩

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 ふつう死は心臓停止として起こるが、脳が先に機能停止におちいる場合、人工呼吸器によって脳死状態の身体を生かしておくことができる。そこでは死を抑止するテクノロジーの介入によって、生を手放しながら死を中断された「中間的身体」が生み出される。脳死が問題となるのは、脳死を人の死とみなすことで、この身体を人格性の拘束から解放し、「人ではない身体」「資材」へと転化する点にある。これは死を人間に役立つ「生産的な死」とする論理であるが、そこには非人間化という不気味さが潜んでいる。だが人間はこの不気味な状況を欺瞞なしに受けとめ、身を開きながらありうるべき関係を探ってゆくほかはない。一方で移植治療においては、死に委ねられた臓器が他者において復活し、身体的生命は部分身体の受容と復活を通して、それ自身の論理を貫いている。我々は、技術の進歩に見合うだけの精神を持つべきだ。

そのための方法の第一は、現実から目をそらさず、問題点をはっきりと明らかにすることである。例えば、スマートフォンやインターネットは私たちの生活を非常に便利にした。分からないことはすぐに調べることができ、人との連絡も簡単に取れるようになった。しかしその一方で、誹謗中傷や個人情報の流出といった問題も深刻になっている。実際に、SNSで冗談のつもりで投稿した言葉が炎上し、相手を深く傷つけてしまったというニュースを目にすることがある。私自身も、何気なく見たコメントに心が重くなった経験があり、画面の向こうには感情を持った人がいるのだと考えさせられた。このような現実を「便利だから仕方がない」と片付けるのではなく、なぜ問題が起こるのかを考える姿勢が大切だと思う。

第二の方法は、問題に対して大勢で議論を尽くすことである。平成21年5月21日から始まった裁判員制度は、その重要性を示す良い例である。裁判員制度では、一般の市民が裁判官と共に刑事裁判に参加し、被告人の刑を決定する。これは、他人の人生を大きく左右する重い判断を、市民一人一人が担う制度である。そのため、自分の考えだけで判断するのではなく、多様な意見を聞き、話し合いを重ねることが不可欠になる。これは裁判だけに限らない。学校生活においても、クラスの話し合いやグループ活動で意見が対立することがあるが、互いの考えを述べ合うことで、より納得できる結論に近づくことができる。このような経験は、技術社会を生きる上で必要な力を育ててくれる。

確かに、技術の進歩は目覚ましく、人間の意識の方が追いつけなくなりがちである。しかし、立ち止まって考え、他者と意見を交わすことで、私たちは技術に振り回されるのではなく、技術と向き合う力を身につけることができる。私は、「技術は答えを与えてくれるが、正しさを決めるのは人の心だ」という言葉を大切にしたい。便利さだけを追い求めるのではなく、人として何が大切かを考えながら技術を利用していくことが、より良い未来につながるのではないだろうか。