煩わしさという名の希望を受け入れる

    ()  年月日

 かつてサングラスをかけることは、自意識を伴う冒険であったが、現代では日常に溶け込み、他者の視線を遮る「隠れ蓑」として変化した。この変化の背景には、希薄化した現代に対人関係があり、そこには自分をけし、安全地帯を確保する心理が、サングラスという壁を通じて現れるのだ。私たちは、他者との生身の関わりから生じる刺激や、煩わしさを受け入れられないことが問題だ。

 第一に、私たちが現代的な「見えない壁」に依存しすぎていることが大きな問題である。最近では、SNSや動画サイトにおいて、匿名の陰に隠れて他者を攻撃する誹謗中傷が深刻な社会問題となっている。これは、画面という壁を盾にすることで、相手が生身の人間であることを忘れ、何を言っても許されると勘違いしているからに他ならない。また、物理的な場においても、私たちは常にイヤホンを装着し、スマートフォンを見つめることで、周囲に対して「話しかけるな」という無言の壁を築いている。確かに、自分だけの空間を確保することは精神的な安定に繋がる。しかし、そうして他者との予期せぬ接触を遮断し続けることは、他者の存在を風景の一部へと格下げしてしまう危険をはらんでいる。実際、私は先日、自分の最寄り駅において、この「見えない壁」の存在を痛いほど実感する経験をした。駅の改札に入った際、偶然にも担当していただいたことのある塾の先生を見かけたのである。その方は大学生で、以前に「僕も君と同じ駅に住んでいる」という話をされていたことがあった。ふと目が合った瞬間、私の心には「挨拶をすべきだ」という当然の礼儀と、「声をかけたら邪魔になるのではないか」という強い葛藤が同時に湧き上がった。先生は私服姿で、おそらく校舎に向かう完全なプライベートの時間であった。もしここで教え子である私に声をかけられたら、先生は仕事の延長のような気分になり、せっかくの休息を台無しにしてしまうのではないか。そう考えた私は、結局、気づかないふりをして足早にその場を立ち去ってしまった。しかし、後になって激しい後悔が襲ってきた。先生のプライベートを尊重したつもりであったが、それは単に、自分が声をかけるという「生身の関わりの煩わしさ」から逃げただけではなかったか。結局のところ、私は敬意を盾にして自分を正当化し、相手との間に冷たい壁を築いてしまったのである。

 第二に、他者への関心を持つこと自体を「マナー違反」として排除しようとする、最近の日本社会の風潮も看過できない。現代の都市部においては、他者と関わらないことこそが「洗練されたマナー」であるかのように扱われ、知らない人に声をかけられたら無視をすることが正解とされる空気がある。その具体例として、日本の住宅事情における「挨拶禁止」の議論が挙げられる。二〇一六年、神戸市のあるマンションにおいて、住民から「子供が知らない人に挨拶されると怖いと言うので、挨拶を禁止してほしい」という要望が出され、実際に挨拶禁止のルールが検討されたというニュースが世間を騒がせた。また、警察庁の統計によれば、二〇二四年の刑法犯認知件数は約七十万件に上り、治安への不安が人々の警戒心を高めていることも事実である。しかし、数字に裏打ちされた安全を求めるあまり、隣人の顔すら知らないという極端な孤立を推奨する社会が、果たして健全と言えるだろうか。もし、かつての江戸時代のように「向こう三軒両隣」という言葉が機能し、お互いの存在を認め合う土壌があったならば、孤独死や孤立といった現代特有の悲劇はもっと防げたはずである。一九〇〇年代初頭の日本の地域共同体では、人々は確かに煩わしいほどに干渉し合っていた。しかし、だからこそ、互いの異常にいち早く気づくことができたのである。現在、私たちは効率的な無関心を追い求めるあまり、人間関係のセーフティネットを自ら断ち切ってしまっているのだ。

 確かに、過度な干渉や管理から自分を遮り、孤独の中で自由を謳歌しようとすることは大切だ。しかし、「壁を作る者は安全を得るが、扉を作る者は未来を得る」というように、私たちは自分の殻に閉じこもるのではなく、あえて他者との会話を引き受ける勇気を持つべきではないだろうか。結局のところ、他者との生身の関わりから生まれる戸惑いや煩わしさこそが、私たちの硬直した心を解きほぐし、新しい社会の温度を形成していくのである。したがって、私たちは「見えない壁」を壊し、再び他者の声に耳を傾けるべきなのである。