普段私たちは、コインを
中1 きかれん(kikaren)
2026年4月2日
コインは、年中円形に見えるわけではない。水平方向から眺めれば、あきらかに薄い長方形に見えるはずだ。短い棒状に見えるはずだ。私たちは日常において、いつもある視点からある光景をみる。レトリックは、私たちの認識と言語表現のさけがたい一面制を自覚し、それゆえにもっと別の視点に立てばもっと別の展望がありうるのではないか。。。と探求する努力のことでもある。かつ多角的な言葉によって表現してみることである。レトリックは発見的な認識への努力に近い。こんにち、価値の多様化ということがしばしば問題になる。それは、物の見かたの多様性という問題でもある。
私は物事を多角的に見たほうがいいと思う。
そう思う理由は第一に、違う味方をすることで気づくことがあるからだ。五年生の頃遊具で手すり棒みたいに扱い友達とちょっと危ないことをしていた。その危ない遊びはコウモリとみんなで名付けた。コウモリは棒に両方の足をかけ手もつかんだら、手を離してコウモリみたいにぶら下がることだ。学校に新しい遊具ができた。コウモリができる場所を探しているとあった。ある日、私はその棒でコウモリみたいなのをやったら失敗し、床に落ちた。その時、私は痛くて泣き、なぜか面白く、ちょっぴり笑っていた。泣き笑いをしていると友達が泣いてるの?、笑ってるの?と聞いてきた。私はどっちもと答えてしまい、私の友達たちが混乱しているなか、一人の友達が私が泣いていると判断し先生を呼んでくれた。私は確かに笑っていたが泣いてもいた. 一人 がみんな混乱している中、先生を呼んでくれてたすかった。そこで、私は考えた。遠目で見ていたら、「あっ、笑って寝転んでいる。」と思うかもしれないが近くで見たら「あっ、泣いている。いたかったのかな?」と思うはず。いろんな視点から見ることが必要だと思う。見ないと人はみんなが笑っていると思っているから笑ってるんだ、と人が納得している意見の多い方に吸い込まれるみたいに自分の考えを考えずただ立っているだけで、何も変わらない。だからこの一人の子を私はちょっとした出来事だけど尊敬している。
二つ目の理由は違う方向から見たら自分自身、人生が変わるからだ。たとえば、同じ経験をして失敗しても、それを生かして学んだことと思うのか、それともずっと恥だとずっと抱えていくのととても違う。同じ時間だって独身だと考える人もいればひとりやすらかな時間と思う人がいる。このようなちょっとした判断で人は変わる。
物によっては多角的に見ない方がいいものもある。だけど、私は物事を多角的に見たほうがいいと思う。 なぜなら、判断力の質が上がるし、発想が広がり、批判に強くなるからいいと思う。