日々変わるモノ

   小5 みきひさ(mikimiki)  2026年4月3日

 筆者は、誰しもの人生のどんな一部を切り取っても日々の光景の何処かしらに、何時でも決まって屑籠が、きっと一つは置かれているはずなのに日々に欠かせぬ家具として重んじられていないということに気付いた。捨てるに捨てられないものになっている時になって始めて日々の暮らしの姿勢を作るのは、何を手に入れるかではなくて、本当は何を手に入れないかなのだということに、私たちは気付くのかもしれない。また、人は、屑籠の大きさはその人の心の大きさに正比例すると、勝手にそう決めつけているのだ。この文章を読んで一番納得したところは、屑籠が小さいから家に一つは置かれているはずだが重んじられていないというところだ。なぜかというと、自分の家でも屑籠はあるが、少しも重んじられていないからだ。

 自分の家で重んじられていないものといえば、文房具がある。なぜ重んじられていないと思うのかというと、床に落としても何も思わないからだ。まるで、床に落としても音が聞こえないくらい静かに転がった。多分、勉強に焦っていたから聞こえなかったのだろう。一方、手紙を書いたり、勉強したりするのに文房具は使うのだ。文房具、例えば、鉛筆やシャーペンは、大切なものだが、屑籠のように、軽んじられているのだ。しかし、小さいものはあまり重んじられていないという訳ではない。小さいもので僕が大切にしているものには、祖父、祖母から小さい頃(三歳)にもらった蛍光クレヨンがある。僕がもらう時、

「はい。あげるよ。」

と、祖父と祖母は優しい声で言った。僕は、

「ありがとう。やったぁ~。」

と、大事に箱の中にしまった。そこから、小さいものだから軽んじられるという訳ではないことに気付いた。自分の経験から、小さく、軽んじられてしまうものは、大切なものではなかったり、特別なものではなかったりすることが多いと思う。僕にとって大切で、特別なモノは、誰かからもらったものである。それに対して、お金で買えるモノは、軽んじられるのだ。大きいものだとどうか確かめてみた。例えば、机がある。机も文房具と同じで、日常的に使っているからか、軽んじてしまっている気がする。そこから、大きいか大きくないかは重んじられるかどうかに関係がないと思った。それなのに、人は、「単位」を使い、大きさを比べている。だから、大きさを「単位」で分けるのはなぜか調べてみた。

 大きさを決めるとは何か、単位に基づいて考えた。まず、単位の始まりは、メソポタミア、エジプト文明である。紀元前四千年以上前のすごく昔にできたのである。それに対し、日本での始まりは、「尺」である。一尺は三十五cmである。また、飛鳥時代、つまり、西暦五百五十年頃にできたと書いてあった。何のために単位は作られたのかというと、単位は、商取引や建築のために必要だったそうだ。一方、問題点は、単位が各国でばらばらで決めていたので、呼び名が違っていたり、同じ名称でも同じ量を示さなかったりしたことだ。例えば、足の踵から爪先までの長さは、英国では三十センチだが、ドイツ・プロイセン地方では三十八センチもあるのだ。僕の考えは、単位は大切であると思った。なぜなら、単位がないと長さがどれくらいか分からないので、物を生産できなくなり、生活が貧しくなるからだ。

 人間にとって、大きさとは見る角度や視点によって変わるものであ る。そして、日々、変化し続けているものでもある。例えば、大小で比較した場合、大切さは大きくても小さくても変わらない。反対に、単位で大小を比べることで、最終的に生活を豊かにしてくれることにつながるので、単位で比較することは大切な指標になる。「日進月歩」という四字熟語がある。日ごと月ごとに絶え間なく進歩するという意味だ。これから周りも自分もどんどん変化していくと思う。だから、変化を敏感に捉え、それに合わせて自分の心を成長させたいと思う。

「僕」という高速バスは山あり谷ありの道を進んでいる。未来停留所はまだまだ先だ。