分析主義

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 分析とは、外から見る立場です。たとえば、水は水素と酸素からなるという場合、水は確かに水素とか酸素とか私たちが名づけるものからなあり立っています。つまり分析するとは、特殊なものを一的なもので理解するということなのです。そしてそれは、逆に言えば、ユニークなもの、唯一独自なものがあると知れば、そのようなものは分析できないということです。現代になって、分析主義はもはや万能ではなくなった。分析主義では見抜ききれない、細部の存在が露呈しつつあるのだ。このままではいずれ、分析による観察の限界が訪れることだろう。

 何より、分析主義は、物事を既存の物に無理やり整形してしまうところに問題がある。人間を測る指標として、学力と言いうものがある。大半の学校では、生徒のテストの結果や授業態度などを数値化し、それをもとに成績を決める。成績は後々の受験に、そして就職に関わる。学歴社会などと形容されるように、多くの企業が人員を募集する際、その人の人となりを見る前にその人に関する書類を見る。それはまさに数値化の到達点と形容できるものだ。その人の人なりは到底数字などで表せるものではないことは、もはや言うまでもないことだろう。正しい評価を下すため、どんなに科目数を増やし、着目点を増やし、その人の個性を見抜こうとしても、どこかに必ず穴がある。社会科という教科を細分化し、歴史、地理、政治、経済などと分け、その人が得意とする分野を評価しようとしても、歴史であればいつの時代が得意だとか、地理であれば国外よりも国内の地理が得意だとか、必ず漏れが出てくる。従来の分析主義だと、このような差異は見て見ぬふりをし、すべてをひっくるめて歴史や地理という観点で評価を下してしまう。ならば、さらに細分化をして行けばいいのかと言えば、これもそうではない。それではただのいたちごっこに成り下がるだけだ。本来言語でさえ表現が難しい人というものを、無理やりに数値化してしまえばこうなるのも当然と言えよう。型に無理やり押し込めるほど、人間というものは簡単なものではない。

 しかし、分析主義と、それからなるものをすべて捨て去れば、人間社会はより良くなるのだろうか。多くの報道機関などで使われる経済指標として、GDPがある。国内で生み出された物やサービスの価値を合算したもので、国の強さを示すものだ。最近、そのGDPを日本はドイツに追い越された。元々は世界二位のGDPを誇っていた日本は、今ではインドにも追い抜かれ、5位である。それでも十分素晴らしい経済力を誇ることは疑いないが、それでもひと昔前よりは劣っている事もまた事実だ。もし、このGDPという概念がなければどうなることだろう。自国の経済力が、諸外国に劣っていることを知らずにすむかもしれないが、それは問題から目を背けているだけで、根本的解決にはならないだろう。GDPという指標は、物事を正確にとらえるためには、必要不可欠と言えるものだろう

 分析主義は、細部を見切れないという欠点は確かにある。しかし、だからと言って捨て置くのは論題だ。分析主義の効率さは、なににも代えがたいメリットがある。しかし、効率に人の心は余計ないものだ。効率主義を極めていては、イギリスの産業革命期のような、利益だけを追い求めるディストピアになってしまう。確かに効率だけでは物事は成り立たない。冷酷非情は人を殺す。だが、温柔敦厚も、時に人をダメにするのだ。分析主義に身をゆだねすぎず、また、目を背けることのないそのバランスを、我々は追い求める必要がある。中庸こそが、我々の問題を解決する糸口となるはずだ。