想像力
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年月日
読書は設備も要らず、どこかへ出かけるにも及ばず、相手と相談もせず、気の向くままにいつでもできる。当方の体力とは関係なく、老人子供、病人でも、多くの場合には、それぞれ読んで楽しめる。そんな読書の楽しみは無限に広がる。例えば、日本語の文章を楽しむ人もひれば、創造する楽しさを求める人もいる。
私が二年生の時に、絵本の文をなくし、絵だけで創造する授業を行った。当時、ただ表現やリズムを楽しむことが読書だと思っていた私はその突拍子もないアイデアに驚いた。しかし、絵だけでも十分想像できて、この時主人公はこんな思いを抱いてたのかな?等と考えられたり、この時この人はこんな事をしていたんだ!とか創造ができることにびっくりした。登場人物の表情や展開から何が起こったのか分かるのである。文章がなくても、テレビを見ているように、頭の中で、ストーリーが流れる。絵本は絵が大げさなのもあり、創造がしやすかった。けれど、その創造には個々に違いがあって、私は近所のおばさん、主人公、犬などのたくさんの視点からそれぞれ展開されるかと思ったが、友達は、一人がたくさんのところを旅する話だと解釈していた。同じものを読んでいるのに違う想像をしていたなんて面白い。こんな読書の楽しみ方もあって、普通の読み方なんてないから縛られずにたくさん試してみたいと私は思った。 多分、私は読書ををすることで物事と物事を結び付けて考えられるようになったに違いない。そのとき私は、もしかしたら書いてあることをそのまま受け取るのではなく、心情や様子を創造することこそが読書の本当の楽しみ方なのかもしれないと思った。
私は五年生のとき、「大造じいさんとガン」という物語分の勉強をした。そして、教科書の文章と動画(アニメーション)を見比べてみるということを行った。みんなきっと本よりも画像の方が良いと思うのだろうと予想していると、友達は全員本の方が良かったと言っていた。
「こまかい花が咲いてるとかの表現がない!!」
「教科書に忠実じゃないんだけどー!」
とか予想に反して結構動画は、みんなに叩かれ、不評であった。しかし、実際私も文章の方が良いなと思った。なぜなら、教科書にはでてこない変な坊主が出てきて、
「大造じいさん、悲しいのかぁ?」
とか言う。そのせいで大造じいさんの思いが『悲しい』ということになってしまう。私はその時の心情を、複雑な気持ちだと思っていたから、そのアニメーションを作った作者の解釈で、決めつけられるのは嫌だと思った。また、このときはこうなのかな?と想像する楽しさが無くなってしまっている。確かに映像には分かりやすく表情が見られる良さがあるけど、世界により入り込めて楽しみが広がるのは本だと思う。読めば賢くなるのに、創造ができて楽しい本こそが最強!!(笑)
人間にとって読書をするということは想像力を養うために大切なものである。