専門
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長い間、知識とは無知あるいはタブララサに付け加えられ、積み重ねられたものであり、したがって、より多く知ることがより真理に近づくことだと考えられていた。ところが事実は必ずしもそうとばかりはならずに、ものを多く知ること、多くの知識をもつことをによって、かえってわたしたちの一人一人はあるがままにものを見ることをできなくなるという事態が生ずるようになった。知識が創造的な形で働かされなくなるようになったといってもよければ知識がかえって疎外的に働くようになったといってもいい。私は専門家が過大に評価される現在の社会は問題だと思う。
第一の原因は、専門家の意見に従った方が安心できるからだ。専門家という肩書きによって、その人に従えば間違いはないという安心感が生まれる。むしろ、有象無象はともかくとして専門家さえをも信用しなければ、自身の生きる指標が完全に失われることになる。私たちの内面に存在する、絶対的に信頼できる拠り所を求める心が、無意識に専門家を求めているのであろう。溺れるものは藁をも掴むということわざがある。私たちの人生は、道のない手探りの旅である。そして私たちは判断を下す助けとなる道標を常に求めている。専門知識と研究に裏打ちされた専門家の言葉に、疑うことを放棄して意識下で縋りついてしまうのは不自然なことではないだろう。1929年の世界恐慌では急激な不況をアメリカ政府が軽視し、市場原理に任せておけば景気は回復するという楽観的な方針をとったため対応が遅れることとなり、結果的に第二次世界大戦を引き起こす遠因となった。専門家の発言は必ずしも絶対的に正しいわけではない。専門知識は過去の経験から得たものであって、将来を完全に予測することなど不可能だからだ。しかし、それらの発言が無条件に正しいものとして受け入れられている現状は問題だ。
第二の原因は、私たちが、自身で考えて行動することに慣れていないからだ。私たちは、学校教育で先生たちのやること教えることを何の疑問も抱かずに真実として受け入れてきた。そして教育の場合、概して真実のみが登場する。学校教育で扱う題材はそのほとんどが答えの存在するものだからである。しかし、実際の世の中には正解の存在しない場合の方が多い。例えば勉強方法にしても、どんな方法で、いつ、どこで勉強すれば自分が一番効率よく志望校に近づけるかの確かな正解を知っている人はいないであろう。私たちは判断を下す際、常にベターだと感じた方を選んでいるだけであって、ベストな方法を理解する術はない。それにもかかわらず、学校で先生という専門家の教える内容を無条件に信じて受け入れるという姿勢が習慣化されてしまっていることで、自分自身で考え行動することに不慣れとなってしまっている。
確かに、専門家の影響力は大きい。仮に、テレビで、その道の専門家と通りがかりの一般人に二人に取材をしたとする。その二人の発言が全く同じであったとしても、専門家の発言として紹介されれば人々は素直に受け止めるだろうし、出典が通りがかりの一般人であれば、それを確かな真実として受け止める人は少ないに違いない。しかし、どのような人物、組織による意見かももちろん重要だが、それと同様に、どのような内容であるかも重要だ。特に、絶対的な正解の存在しない問題において、自分自身でも何がベターかをじっくり検討し、専門家の助言であっても、本当にその選択肢しか存在しないのかを吟味することは大切である。目は使えば使うほど視力は落ちていく。幼い子供の独特な発想は長じるにつれ失われていくように、専門知識を増やしたがために見えなくなるものもある。専門的な知識を過大評価する社会は問題だ。