人々が時間に
高1 まさゆき(akiroma)
2026年4月4日
人びとが時間に追われるようになったのは時計が発明されてからといわれる。もともと昔の人は、時間によって自らの行動を律しようとは思っていなかっただろう。日本社会でも、日の出とともに田畑に出かけ、日の入りとともに家に帰って休むというのが当たり前の生活パターンだった。いつでもだれもが時計を所持するようになると、ついつい時計をのぞく機会が増え時間を気にするようになる。画面に現れる時刻表示をちらちら見ながら、毎朝どたばたしているのが実情である。だが、これが秒単位で表示されるようになったら、秒刻みで行動することになり、時間に追われるという感覚がいっそう切迫したものになることは確かだ。時間への関心は、時間にとらわれないことや時間に追いかけられないことではなくて、時間の効率に使う方に向かっている。そんななか、わたしは時間に束縛されないで生きたい。
第一の方法は、制限時間などを作らないということだ。何時までに、食事を終わらせてなければならないや、何時までが、本読む時間ねとか、時間で区切ってしまうと、自分の集中、楽しみを一回壊すことになってしまう。一度は誰でもあると思うが、映画の一番面白いシーンのまったたなかで、親にご飯と呼ばれたり、「勉強して」と言われたりする。それは、新たなものに取り掛かるときの集中力低下にもつながってくる。そして時間で区切らず物事が終わるので切った方が満足度も、次の行動の集中力も変わるのだ。
第二の方法は、こだわりや愛着を持つことだ。プラモデルのようなスケールの大きいものに対しても、時間を掛けれるような環境にしたい。今日は何分まで、とかではなく、自分が満足いくまで、一パーツ終わったぐらいまでなど、プラモデルに愛着を持つからこそ、時間を気にしない。それは、スポーツにも言える。この時間までこれをやろう。そんなふうにしてしまうと結果的に自分に身についているのか否かがわからない。もしくは中途半端になってしまう。だからこそ自分が納得できるレベル、理解できるまで、続けるべきだと思う。
確かに時間で管理することで、いいことやつまらないこととかを切り替えることが出きる。しかし、それが自分の身に付くことが出来なかったり、中途半端だったり、いい流れを壊してしまうかもしれない。哲学者のアラン・ワッツが生産性で一日を測るのをやめ、どれだけ“今”を生きたかで測りなさい。」というように、やりたいことなどをやりきるだったり、納得した形にすることがたいせつである。私はそのように納得できるまで突き進める人間になりたい。