この時代だからこそ作る「余白の時間」

   中3 あかるら(akarura)  2026年4月3日

 人々が時間に追われるようになったのは時計が発明されてからである。時計を所持するようになると、時計を覗く機会が増え時間を気にするようになる。現在分刻みで行動している私達だが、これが将来秒刻みの生活になってしまうのか。近年、金銭消費から時間消費へと関心が移っている。だからこそあえて、能率的、効率的でない時間の使い方のできるチャンスをいかにして確保するかは多くの日本人の課題である。私は時間に縛られずに生きていきたい。

 そのための方法は第一に、空白な時間をあえて意識することだ。余白の時間がゆとりのある生活を支えている。私は今年の春休み、母と共に遊園地へ行った。久しぶりのテーマパークでの体験を満喫しようと、入園するや否や私達は、並ぶことなく様々なアトラクションやショーを楽しめるチケットを予約し、多くのプランを一日の限られた時間の中に詰めこんだ。それが私達の満足度を向上させると当たり前のように思い込んでいたのだ。しかし意外にも結果は異なった。確かに、前回訪れた際に比較すれば体験した数やその質は今回の方が良かったと言える。しかし、綿密に組み立てられた計画だけに沿って行動してみると、常に「何時までにこの場所へ」と次の予定ばかりに追われたことも事実だった。景色を楽しみながらパークを一周したり、お土産の販売店で時間を気にすることなく過ごしたりする機会がなかなか取れず、もどかしさを感じたことを覚えている。集合時間を間違え、目的の店舗で夕食を取れなかったこともあった。誰しも時には何も予定の入っていない「空白の時間」が必要である。いくつのプランを限られた時間の中に組み込むことができたかは満足度と比例しない。人間にとっての充実は、いかにゆとりを持って過ごすのかを含んでいると言える。

第二の方法として、休日の使い方を見直してみることだ。社会的に一週間の中で「余白」と定められている「休日」こそ、時間に縛られずに過ごすべきであると私は考える。古代ギリシャの哲学者の一人にアリストテレスがいる。彼は、「休日こそが人間らしく自由に過ごすことのできる本番の時間」と考えた。これは現代の日本人にとって学びの多い考え方ではないか。以前より、日本人の過労死や働き過ぎが社会問題として指摘され、それを改善するべく働き方改革が行われている。私の学校でも週に二回あった七時間授業を週一回にし、教職員の負担を軽減させる工夫をしている。一方、委員会等の会議や説明会をお昼休みの時間を活用してまで行うことがある。担当の先生方も確かに大変だが、正直私達にも限られた休み時間である昼食の時間は落ち着いて食事をとりたいという思いがある。これは教職員にとっても生徒たちにとっても負担である。また、休日までも使用した先生方の長時間労働が指摘され、大きな議論を巻き起こしたことも決して過去の話ではない。これでは「休み」と定められている意味がないだろう。仕事を行わない日こそ、自分の興味や趣味に活用することが時間に縛られない生活だけでなく、自分の生きがいにも繋がっていくのではないか。

 確かに、規則正しく、時間通りに動くことで、社会も私たちの暮らしも機能してきた。しかし「忙しいことが、美徳だと勘違いしてはいけない。それはただ、自分の人生をコントロールできていない証拠かもしれないのだから。」という言葉がある。ときの流れが速い今だからこそ、時間によって自らが自らを縛ることのないよう、余白の時間を作り、その時間を大切にしながら生きていきたい。