生活の裏に隠れる当たり前

   小5 ちぴ(asatihi)  2026年4月4日

 いつでもきまってくずかごがきっと一つは置かれているはずなのに、日々に欠かせぬ家具として、あまり重んじられていない。わたしたちは、くらしというのは、手に入れるものでつくられるのだと考えている。何かを手に入れることが暮らしの物差しをつくるので、手に入れたものをどれだけいれられるか、その容積のおおきさがゆたかさの目安なのだ、と。しかし、多くは捨てるに捨てられないものばかりになってしまっている。そのときになってはじめて日々の暮らしをつくるのは、何を手に「入れないか」ということに気づく。大きなくずかごを、心の広い友人としておくだけで、暮らしの姿勢が変わってくる。

 何が日々の暮らしに欠かせないかと考える。そのとき、ちょうどアイパットをいじっていた弟が、画面をタップして、わたしの目の前で見せた。「二十四時間コトバなしチャレンジ」とあった。

「えぇ―。できるのかな、一日中コトバなしって。」

題名を見て絶句した。そのとたん、電光石火のごとく、わたしの頭を駆け抜けたものがあった。そうか、言葉だ。そっと裏から隠れて、日常を支えてくれていたのは、人間にしかない、言語だったんだ、と初めて気づいた。膝を叩いてああ、と思った。どんな動画なのだろうとみていると、言葉がなくて表情だけで伝えている場面があった。女の人が、アイスクリームが欲しい、と伝えている。ぺろりとなめるしぐさをして、絶品だという笑顔をつくる。いぶかしげに見ていた相手側がまるをつくって、ストロベリー味のアイスクリームを注文した。バニラ味が欲しかった女の人が、がっかりしたようにうつむいていた。紙に書けばいいのに、とはじめは思った。

「紙に書けないよね、そもそも言葉がないんだから。」

とつぶやく弟を見て、わたしは納得した。言葉とは、まさに縁の下の力持ちだな、と感心した。

 「ねえ、お母さん。お母さんは、普段気づかないけど、とっても大切なものって、思いつく?」

何気なく質問をして、わたしたちの会議はスタートした。母は動きを止めると、考えるように目を閉じる。いっぱくおいてから、母は逆に質問した。

「じゃあ、ちひろはどうなの。」

待ってました、と言わんばかりに、わたしは高らかに意見をぶつけた。

「ふふーん。言葉、だよっ。」

わたしが考えた中では、かなり自信作だ。えっへんと胸を張って反応を見ると、母は驚いたように目をしばたたかせた。

「うっわあ、レベル高いなあ。う―ん、とね。やっぱ、「当たり前の健康」かな。いつも実感しないけど、ほら、例えばインフルとかになったときにああ、って思うよね。家事も仕事も、遊びもぜーんぶキャンセルだもん。」

パッと手を広げてまとめる母の言葉を、わたしは頭に刻みつけた。母の場合も、やはり概念的なものである。なるほど、とうなずいていると、母が「でも。」と言った。えっ、何か付け足しかな。疑問に思ったわたしは、そのあと、ずっこける展開となった。

「ちひろにはかなわないかな。言葉って、今も話してるし。すごいねえ。」

ただの賞賛の言葉だった。深刻なものだと信じていたわたしは、思わず笑ってしまった。

 わたしはこの長文と、経験を通して、わかったことがふたつある。ひとつは、日々に欠かせぬ大切なものほど、当たり前に思ってしまい、大切だという実感がわかないということだ。もうひとつは、日々の生活に目を留めることで、暮らしの姿勢が変わってくることだ。当たり前だと思っていることが、実はとても大切なものであったりすることに、一度でも気づけたなら、きっと何が必要で、何が不必要なのかの分別がつくことだろう。わたしはこのわかったことをふまえ、これからは、もっと頻繁に日常生活に目を向け、本当はそっと、裏から、人間の生活が成り立つように支えてくれていたものに気づきたいと考える。そして、いつかきっと、全世界の人々が、それらのものを大切にする日が来ることを願っている。