清書

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疑わない人は考えない人である。疑うというのは、本当かどうか怪しいと思う。不審に思う。うたぐるという意味であり必ず思考する過程を得なければたどり着けないものだ。

 現代社会において、全てのつじつまが合う話などはほとんどない。総務省通信情報白書によると、そもそも人間は同じ事実を共有していない、と書いてある。これは則ちデータセットが人ごとに違うということを表しており、誰から見てもつじつまが合う話などは存在しないのである。そこで、自分の理解と、他所との違いの対比を計り情報を明確化させていくためには疑い、考えるべきである。

 考えるためにはどうしたらよいのだろうか?一つ目の方法は「感じる」機会を増やすというものである。ここである僕の思考に対する認識を述べる。思考とは思ったり考えたりするのではない。思って、考えるということである。感じたり、思ったりするのは初期段階である。そこから、考えへと発展させるためには熟考が求められる。しかし、この根本となる「思う」や「感じる」を増やさなければ、考えることなど不可能である。思いや感受は思考の土台である。

 例えば授業でこんな体験をした。教師の話は非常に多彩で面白い。それは授業に関係あることでもあれば、全く関係ないことでもある。僕の通っている学校では、授業の終わりに必ず振り返りの記述を書く時間がある。そのため、授業中に「これは後で振り返りに使えるかもしれない」と思った内容や、直接単元と関係ない雑談でも、重要だと感じたことはすぐにメモするようにしている。その結果、実際に振り返りを書くときに、その時の気づきがそのまま言語化できたり、授業内容の理解が深まったりする経験があった。このように、授業の一つ一つの情報を意識的に拾うことは、「感じる機会」を増やす実践でもある。

 二つ目の方法は、情報を自分なりに解釈する。すなわち情報のメタ化である。先述した通り、感じる機会を増やすべきだが、それを考えまで発展させなければ本質的な疑いはできない。ここでいう情報のメタ化とは、情報を単なる「知識」として持つのではなく、「その情報がなぜそう言えるのか」「他の情報とどうつながるのか」「自分の経験とどう矛盾・一致するのか」といった形で、一段上の視点から捉え直すことである。例えば授業で得た知識を、その場限りで覚えるのではなく、「これは前に学んだあの単元と構造が似ている」「この説明は別の教科の考え方でも説明できるのではないか」と関連づけることで、情報は単体の記憶ではなくネットワークのように広がっていく。

 特にここで重要視されるのは、すぐに考えるのではなくとぎれとぎれに長時間考えることである。その感じたことは時間を断てば見方も変わり、簡単に結論を出してしまうと欠陥が発見されることもある。また、断片的な思考は心理学的にもインキュベーション効果として実際に認識されている。

 情報のメタ化は実に興味深いものである。メタ化された情報は、覚えようとしなくても自分の思想の一部に組み込まれ、何か考えようとしたときにその情報から自分の方向に向かってくるような感覚となり、より深い思考の支えとなる。

 確かに、考えるよりも素直に受け止めることは大切かもしれない。でも、それだけなら、ただのうまいような話に載せられるだけである。思考の本質を理解し、実践することで自分の思想が強化され、疑いの本質を持つことができる。その疑いが、社会的に反映されなくてもいい。自分の思想として、日々の生き方の指針として活用できるなら、それが自分の人生をより豊かにするだろう。