「決めつけ」という名の壁を超えて

   中1 あきゆれ(akiyure)  2026年4月4日

 ふだん私たちは、コインを丸いものとみなしている。それは決して球形ではなく、正確には円盤形のことだと、誰でも承知している。コインが自然に安定しやすい姿勢で置かれているとき、人間の視線の自然な角度から見ると、丸いからだ。しかし、コインを水平方向から眺めれば、明らかに薄い長方形に見えるはずだ。価値の多様化を引き起こすレトリックとは多角的なことばによって表現してみることであり、発見的な認識への努力に近い。すべての人が同じ視点からのみ物事を語る社会はひどく無機質で寂しいものだと私は考える。多様な意見が存在し、それらをお互いに尊重し合うことこそが現代を受ける私たちがとるべき姿勢ではないだろうか。私は物事を多角的に捉えると言う多角的な視点を持つことに強く賛成する。

 理由は第一に、多角的な思考によって、物事の本質を見抜くことができるからだ。以前、私は仲良しの友達と大喧嘩をしてしまった。私は日曜日、その友達と一緒に遊ぶことになっていた。友達は集合時間になっても集合場所に来ず、二十分遅れて来た。私は「友達はルーズだ」と決めつけて、つい怒ってしまった。私は怒りが収まらず、そのまま帰ってしまった。帰ってから、友達の立場になってなぜ遅れたのかを考えた。「実は何かトラブルがあったのか。」「優先順位があったのか」など、考えられる理由は様々だ。後から、自分は相手の事情も知らず、端的に決めつけてしまったことで喧嘩が起きたのだと気がついた。喧嘩の本質は相手の遅刻そのものではなく、自分の「決めつけ」による対応の拒絶にあったのだと気づくことができた。このように、なぜ喧嘩が起きたのか、本質を見抜くために、多角的に見ることが大切なのだ。

 理由は第二に、レトリック感覚は自己理解を深め、新たな発見をもたらすからだ。先ほど挙げた実例で、なぜ自分の怒りが収まらなかったのかを私は考えた。端的に言えば、「遅刻をされたから」である。これを深掘りすると、「時間を無駄にされたから」、これをまたさらに深掘りすると「自分の存在を大切に扱われていないと感じて悲しかった」という、自分の本当の心境が分かる。私は怒りの正体は「遅刻」ではなく、「承認欲求や尊重が満たされない寂しさ」だと気づくことができた。私は友達にこのことを伝え、謝った。私は素直に友達と対話し、和解することができた。「多角的な視点」とは人生を豊かにする武器でもあるのだ。

 しかし、時と場合によっては、多角的に考えることを相手して、一つの方向に思考を研ぎ澄まさなければならない局面もある。例えば一刻を争う災害時や、自分の生死がかかっているような極限状態がそれにあたる。そのような場面では、周囲の複雑な事情を考慮したり、他者の多様な視点を検証したりする余裕はない。何が何でも命を守るという単一の目的に向かって最短距離で最善の決断を下す必要があるからだ。ここでは、迷いを産む高的な思考よりも一つの目的に直結した「一方的で強い決断力」こそが生死を分ける武器となる。このような面で、製造本能に基づいた一時的な視点の固定は決してあることではない。しかし、私たちが警戒すべきは、日常の人間関係や社会生活においてもこの極限状態の思考を無意識に適用してしまうことである。皆さんは、「フィルターバブル」、「エコーチェンバー現象」という言葉をご存じだろうか。これは、SNSで「見たい情報」だけを表示し、「見たくない情報」を遮断してしまったり、自分と似た意見の人たちだけで交流し続けたりすることで、自分の意見が正しいという確信がどんどん強まっていく現象である。これはインターネットが発達している今、とても深刻な問題になっている。自分が「偏った情報を見ている」という自覚がないまま、反対意見を持つ人を「敵」や「悪」と見なしてしまうという、とても恐ろしいものである。確かに物事を一つの視点で深く理解することも大切かもしれない。しかし「雑草とは、まだ、その美点が発見されていない植物のことである」という名言がある。一つの視点に固定せず、視野を広げることで、私たちは初めて他者の美点や世界の真実に触れることができる。私たちは今、自分の正義だけが反響するエコーチェンバーの中で生きている。しかし、その心地よいバブルを突き破り、あえて不都合な他者の視点に立つことでしか、物事の本質には触れられない。あの日の大喧嘩は私に「正しいことの向こう側にある真実」を教えてくれたのだ。私はこのように多角的な視点で、視野を広くもつことは良いことだと思う。