本質は長い時間の中に

   高1 蜩(aeriya)  2026年4月3日

 あらゆるものがカジュアルになり、様々な機器の圧倒的な便利さと引きかえに、面倒な手続きが消える時代のなかで、クラシック音楽は本当に伝統芸能化せずに生き延びられるのか、と心配したのが杞憂かのように、それはおしゃれなファッションになれる。世の中にはクラシック音楽は難しいと言う人がいる。その人たちが口をそろえて語るのは、一曲が長いので途中で退屈してしまう、まして暗く閉ざされたコンサート会場で長時間、物音ひとつ立てずにじっと座っているのは苦痛だ、ということである。私は、クラシック音楽の一部分を十五秒で流すような軽薄短小な文化に流されるべきではない。

 そのために第一の方法として物事の原点に還ることだ。勉強とは知識や考え方を身につけたり、思考力を高め、物事の解決を図る力をつける事を目的としている。しかし、その目標を見失っている人が多くいる。勉強をすることを好きな人はあまり居ないだろう。多くの人がこの苦行を早く終わらせたいと思ってやっているのではないだろうか。それがために、大部分の人がただ暗記、計算を「するだけ」の勉強法になってしまう。このやり方では、「身につけること」ではなく、早く勉強を「終わらせること」に目的がすり替わっている。これに気づかないまま、ひたすら知識を右から左に流していれば、決して「本来の目的」には達しない。その結果、「どれだけやっても一向に身につかない」「全くできないからもっと勉強が好きになれない」という悪循環に陥ってしまう。この状況を打破するためには一度、勉強をする意味について戻った考えた上で勉強するしかないだろう。私が中学時代にも似たようなことがあった。打楽器をやる上で三年間続ける練習は基礎練習だ。これは、ただひたすらリズムに合わせてスティックで練習台をたたくだけの練習だ。とても単純な練習だが「基礎」がつくだけあり、これを続ければ、基礎が着実に身につき、リズムを正確に刻めるようになる。しかし私のいたパートはこれを疎かにしすぎだった。やるとしても、合奏で他の楽器が指導されていて暇な時ぐらいだった。そのため、毎日基礎練を続ける習慣がだんだんなくなっていった。私が受験が終わり部活に戻った時には基礎練はほとんどしなくなっていた。そのため、最初の頃の演奏は散々であった。このように大抵うまくいかない事があれば、それは大本となる部分がずれているケースが多い。一度立ち止まって原点に立ち返ることは大切だ。

 第二の方法は学校教育の場でも、じっくりと考える場を設けることだ。勉強の場合、初めての問題の内容を自分で考える間もなく、すぐに答えを教えてしまう教育というものは、とてももったいないと私は思う。その方法では、考える力がつかなければ、勉強を好きになることや、学ぶことで発展する周りの世界に興味を持つこともない。それは初めての物語の内容を最初からネタバレされた状態で読むようなものだ。そんなものは面白くもなんともない。しかし最初に少しでも自分で考えてみることで、自分で考えたことが合っていれば、それだけで大きな達成感が得られる。また新たな発見や疑問が浮かんだりしてとても刺激的だ。そのため思考力もつきやすいのだ。私も小学二年生の夏休みに、自由研究として好きな虫について調べた経験がある。自分で外に出て虫を捕まえて家で顕微鏡を使って観察したり、夜にフィールドワークでひたすらセミ羽化を見ていたりと、さまざまな角度で研究した。もちろん図鑑を参考にして文章などを書いたり、図も描いていたが、その中で「疑問に思ったこと」を考えながら書いていた。そのため常に楽しく、なんでも頭の中にスッと入っていくような気分だった。私は今でもここで学んだ虫の知識を覚えている。ここから、教育の場でも長い時間自分の力で物事を考えるタイミングを儲けるべきだ。

 確かに軽薄短小である方が、物事を文字通り短くわかりやすくまとめられ、便利である。しかし、時間をかけて物事に取り組む文化は、ただ長く効率が悪いやり方ではなく、物事の本質を見通し、新たな発見や謎を見つけられる術なのである。よって軽薄短小な文化に簡単に流されるべきではないのではないか。