数値化できない幸せの形

   中1 あきゆれ(akiyure)  2026年5月1日

 数年前、森林関係研究所に勤務している研究員のところに、ある村の村長が訪ねてきた。その村の森には、それほど多くはないが、今では希少価値になった。天然のヒノキが大きく育っているのだと言う。村長の問いであった、そのヒノキを一番高く売るにはどうするのが良いのかということについて、研究者は玄関の表札にして売るのが有利だという答えを出した。ところがそう話すと、村長は極めて不愉快そうな顔をした。樹齢二百年を超えた大木が、柱になった後も、堂々と建物を支え続け、生き続ける姿を思い描いていた村長には、それが細切れにされることなど、容認できることではなかったのである。山の木が建築物に変わるまでの間には、次元の異なる一つの過程が重なり合っているのだろう。それは使用価値と商品価値の違いによって命じるずれ、と言っても良いが、木自体が持っている価値を生かすか、商品としての木の価値を優先するかを巡って、木に携わるものたちもまた動揺してきた。山の木を単なる商品にしてしまわないためには、職人的な腕が生きていなければならない。大きな森を育てていこうとする村人の腕や製材職人の腕、木の特性を生かしていこうとする大工の腕などが健在である間は、木と人間は一体化して木の文化を作り続けることができる。中古ショップに行けば、数百円で売られているかもしれない。あるいは、ゴミとして捨てられてしまうかもしれない。しかし、私にとってそれは、何億円積まれても譲れない宝物だ。私たちは普段、あらゆるものに『価格』というラベルを貼って価値を判断しがちだ。高いものは良いもの、安いものはそれなりのもの。しかし、数値化された瞬間にこぼれ落ちてしまう、もっと本質的で大切な価値があるのではないだろうか。私は、ものの価値をお金という物差しだけで測るべきではないと考える。

 理由は第一に、ものにはその人にしか分からない「思い出や感情」が宿るからだ。私の手元には、小学校の図工の時間に作った(歪な形の粘土の小物入れ)がある。今の私の目から見ても決して上手とは言えず、店に並んでいる既製品のような美しさや機能性はない。リサイクルショップに持っていったとしても、値がつくことはまずないだろう。しかし、私にとってこれは、どんな高級ブランドのインテリアよりも価値のあるものだ。これを眺めると、放課後の静かな図工室の匂いや、ヘラを使って夢中で粘土を削った指先の感覚が、昨日のことのように思い出される。完成したときに先生が掛けてくれた言葉や、友達と見せ合って笑った記憶。それら全ての「時間」と「感情」が、この小さな塊の中に封じ込められているのだ。もしも私たちが『いくらで売れるか』という尺度だけでこの世の中を眺めてしまったら、こうした過去の自分との繋がりは、単なる『無価値なゴミ』として切り捨てられてしまうに違いない。しかし、ものの真の価値とは、支払った金額ではなく、その対象とどれだけ深く心を響かせ合ったかによって決まるものではないだろうか。

 理由は第二に、ものの価値は、それが完成するまでに費やされた「手間や真心」によって決まるからだ。例えば、小学校の卒業式を前に、クラスの友達と放課後に残って作った大きな寄せ書きの模造紙を思い出す。それは単なる紙とペンの集まりかもしれないが、そこにはお金では決して買えない重みがあった。一枚の紙を埋めるために、私たちは何度も話し合い、相手のことを思い浮かべながら、一文字ずつ丁寧に色を塗った。もしこれが、業者が作った既製品の記念品であれば、見た目はもっと整っていて立派だったかもしれない。しかし、自分たちの手を動かし、試行錯誤しながら過ごしたあの「時間」そのものが、その紙に唯一無二の価値を与えていたのだ。現代では、何でも効率よくお金で解決することが「正解」とされがちだ。しかし、誰かのために手間をかけ、心を砕いた経験は、数字には表れない温かさを生む。効率や損得を抜きにして、誰かのために何かをしようとする純粋な思い。そのプロセスにこそ、お金という尺度では到底測りきれない、人間らしい豊かな価値が隠されているのではないだろうか。

 確かに、現代社会においてお金は共通の尺度として機能しており、生活を支える基盤であることは否定できない。しかし、近年の社会を見渡すと、あらゆるものを効率や数字だけで判断しようとする「数値化の罠」に陥っているように思えてならない。今、世の中では「コスパ(費用対効果)」や「タイパ(時間対効果)」という言葉が魔法の呪文のように唱えられている。何かを選ぶとき、それが「いくら得か」「どれだけ効率的か」という視点ばかりが先行し、その裏側にある作り手の想いや、手に入れるまでの豊かなプロセスが、無価値なものとして削ぎ落とされているのが現状だ。このように、価値の基準をお金という一律の物差しに委ねてしまうことは、自分の心で「良し悪し」を判断する感性を放棄することに他ならない。すべてを数字で割り切ろうとする姿勢は、結果として、私たちの人生を効率的ではあるが無機質で、替えのきく空虚なものに変えてしまっているのではないだろうか。もちろん、経済的な価値を無視して生きることは難しい。しかし、サン=テグジュペリが「大切なものは目に見えない」と語ったように、人生を真に彩るのは、いつだって数字には表れない「心の震え」であるはずだ。小学校の頃、友達と夢中で拾った石ころに感じたあの輝きを、私は忘れたくない。私は、物の価値をに考えることが大切だと思う。お金という便利な道具を賢く使いこなしつつも、決してそれに魂を支配されてはいけないのだ。溢れるモノや情報に囲まれた今だからこそ、私は自分だけの内なる物差しを研ぎ澄まし、目に見えない価値を慈しみながら生きていくことを、ここに強く決意したい。