4月 2週目 清書

   中2 あおなと(aonato)  2026年4月4日

 「ふしぎ」と言えば、「私」という人間がこの世に存在しているというほど「ふしぎ」なことはないのではなかろうか。ともかく気が付くとこの世に存在していた。おまけに、名前、性、国籍、貧富の程度、その他、において重要と思われることの大半は、勝手に決められている。現在のように個人主義が進んできて、その生き方をある程度肯定するものにとっては、個人にふさわしい物語をもつ、あるいは作り出す必要があると思われる。このようにして自分の人生を生きるとき、死ぬときにあたって、自分の生涯そのものが世界の中で他にはない唯一の「物語」であったこと、「私」という存在の不思議が一つの物語の中に収められていることに気づくことであろう。

 確かに、客観的な指標は大切だと思う。客観的な指標はよりその人個人の実力や功績が評価されやすいと思う。例えばバスケで、チーム内から代表選手を出さなければならない時、僕は「客観的な決め方」と「主観的な決め方」の二通りの決め方があると思う。もし、練習はすごく頑張っているけど試合ではあまり良いプレーができない選手A君と、A君よりは練習に真剣ではないけど、試合ではエース並みの活躍をしているB君がいたとする。そのとき、僕ならB君を選ぶと思う。今回の試合は練習試合ではなく、大事な代表選手を出さなければならないからだ。もちろん練習試合なら、いつも頑張っているA君にチャンスが回ってくると思う。しかし、いまこの代表選手を決める場面で、A君を選べば、ほかの選手からは不満が出るだろう。練習はみんな頑張っているのにA君だけなんておかしいと。そういった主観的な決め方では、みんなが納得するのは難しいだろう。しかし、B君を試合で毎回二十点以上取っているからという理由で代表選手として選べば、みんなは納得すると僕は思う。なぜなら、誰が見ても同じ見方が出来るからだ。点数など具体的な数字を使った客観的な決め方は一番みんなが納得する決め方だと思う。

 しかし、同時に、主観的な指標も大切だと思う。第二段落で述べたが、実力を発揮する場ではなく、練習試合など実力を試したり、チャレンジするような場は主観的な決め方でもいいと思う。すべてが実力主義であまりうまくない選手は一度も試合に出れない世界では、あまりにかわいそうだと思う。もし、その練習試合で日々諦めずに努力を続けてきた成果が出たら、よりうチームは強くなると思う。だから、客観的な指標だけではなく時には主観的な指標は大切だ。

 人の決断する回数は生涯で十億にもなるという。その一つ一つの決断を僕たち人は「客観的な指標」か「主観的な指標」か判断しなければならない。時には相手や自分にもつらい決断をしなければならないかもしれない。しかし、どんな決断をしようとされようと、その要因や最終的な決断はすべて自分の行いだ。だから、だから僕たちは一分一秒を大切に使わなければならない。