普段私たちは、コインを(感)

   中1 あきえや(akieya)  2026年4月4日

 ある位置にあぐらをかいたまま、腕を組んで眺めているだけでは、ものの真相はよく見えない。自分の認識が、したがって自分の言葉が、有限で一面的だと、いつも承知している人は、やがて、実験的に自分の視点を変え、多様なアプローチをこころみることになる。私は、物事を多角的に見るのは良いと二つの体験と理由から感じる。

 第一の理由として、私は、今まで、歴史の授業で昔の暮らしについて学ぶとき、「スマホも電気もないなんて、不便でかわいそうだな」としか感じていなかった。今の便利な暮らしが「当たり前」で、一番いいものだと決めつけていたからである。

だがある時、資料館で江戸時代の道具を実際に使ってみる体験をして、考えが変わったのである。例えば、火を起こすための「火打ち石」では、今の私たちは、スイッチーつで火をつけられる。だが、昔の人は石を打ち合わせる角度や、火を移す「火口」の準備など、たくさんの工夫をしていたのだ。ここで、私は「不便」という角度からではなく、「工夫」という角度から歴史を見てみることにした。すると、昔の人たちは不便さに困っていたのではなく、限られた道具の中で「どうすればもっと暮らしやすくなるか」と、一生懸命に頭を使っていたことに気づいた。「昔は大変だった」という決めつけをやめて、「時の人の知恵」という視点で教科書を読み直してみると、古い道具の一つひとつが、今の便利な生活につながる大切なステップだったことが分かったのである。物事を一つの方向から決めつけず、多角的に見ることで、ただの暗記だった歴史の授業が「先人たちの知恵を知るワクワクする時間」に変わるという、新しい発見があった。

 第二の理由として、私は、体育の授業がずっと苦手であった。「足が速いか遅いか、運動ができるかできないか」という、結果だけで決まる「競い合い」というのが、私から見た体育の「一面的な姿」だったからである。タイムが遅い自分にとって、体育はただ恥ずかしい思いをするだけの時間だと思い込んでいた。だが、ある日、ハードル走の練習で、先生が「高く跳ぶことより、ハードルをまたぐ時のリズムと、着地した後の最初の一歩をどう踏み出すかを考えてごらん」と教えていただいた。その時、私はハッとした。今まで「運動神経」という一面だけで体育を見ていたが、実は「どうすれば自分の体を効率よく動かせるかという、作戦と技術の積み重ね」という真の姿に気づいたのである。「速く走らなきゃ」という一つの窓からだけ体育を見ていた間は、自分の体の動きをコントロールする面白さや、少しの工夫で記録が変わるという「自分の成長」という本当の姿が見えていなかった。ただの体力測定だと思わず、「体の使い方を研究する実験」という別の角度から向き合ってみると、ハードルを越えるたびに自分の課題が見つかり、体育は「自分を攻略していくゲーム」のように変わっていった。一つの見方に縛られず、物事の仕組みやコツを探そうとすることで、ようやくその教科の「本当の達成感」に出会えるのだと学んだ。

 確かに、物事を一つの方向から深くみていくことも時には必要である。しかし、「雑草とは、まだその美点が発見されていない植物である。という名言もあるように、物事を多角的にみなければ見えてこない部分も多いものだ。