島国言語と理論的言語

    ()  年月日

  私はある文章をまとめた。島国言語の特色の一つは、相手に対する思いやりが行き届いていることである。家族の会話というのは、どんな大陸言語の性格の強い社会でも通人的、したがって島国言語的なものである。時と場合によって、蛇足の部分を増やしたり、減らしたりということをほとんど無意識に行っている。日本語は島国言語である。島国言語というのは極端ないいかたをすると、家族同士の会話を社会全体でもやっているような言語のことで、当然、冗語性は少なくてよい。大陸言語の社会では冗語性をあまり少なくすると、ごく親密な関係の人との間ならともかく、相手に誤解されたり、了解不能を訴えられたりするから、丁寧な表現をしなくてはならない。ヨーロッパ語の中でもドイツ語が一番冗語性が高いということであるが、我々がドイツ語を論理的で何となく理屈っぽいと感じているのはこの冗語性の高さと無関係ではないように思われる。私はこの文章を読んで、理屈っぽい言葉の良さと、冗語性のある島国言語の両方の良さ悪さが分かった。

 私は理屈っぽい言葉の良さと、冗語性のある島国言語の両方の良さ悪さがわかる体験をしたことがある。東京で外国人に話しかけられたことがある。道を聞かれた。それは、下北沢の駅から新宿バスターミナルまでの道筋を教えてくださいみたいなことを英語で聞かれた。私はどう答えていいかわからなかった。その理由は、頭に二つの答えがうかんでどれにしようか悩んでいたからだ。その頭に浮かんだ二つの答えは、一つ目は、わかりませんと言う。英語で言うとI’don’t know.だ。二つ目は、ちゃんと道順を説明してあげるか。私は2分ぐらい黙っていた。すると、その外国人が、「Can you hear me?」と聞いてきた。私は少しイラついた。その理由は、自分のみみが悪いと思われたことと、察してくれなかったからだ。その外国人は片言だが日本語を話すことができるみたいだ。私はちゃんと説明してあげることに決めた。その理由は、その外国人の時間を私がとってしまったからだ。日本語で説明をすることにした。そのほうが説明しやすいからだ。まず、「外国人にあの建物にそって歩いて」と言った。すると、その外国人は「どのビルですか。」と片言の日本語で聞いてきた。私は、「あれ、その、これ。」と相手が察してくれる前提の説明をしていた。外国人はビルの名前を言わなければわからなかった。私は、この調子だったらまずいと思った。その理由は、片言の日本語が聞きづらいし、日本語と違って英語のほうが早く済みそうだったからだ。その理由は、英語のほうが理屈が通っているからだ。私は英語で説明をした。すると、驚くほどスピーディーにわかりやすく終わった。そのあと、今度は知らないおじさんにまた同じところで同じ場所に行くいきかたを聞かれた。説明が、こそあど言葉をつかったり、相手に察してもらって驚くほど外国人に英語で説明するより早く終わった。私は、日本語などの島国言語は相手に察してもらって論理的に説明するよりも早いが、外国人などの理屈が通った言語を話す相手には、論理的に意思疎通をするべきだと思った。

 確かに島国言語にも大陸言語にもそれぞれ良さがある。しかし、一番大切なことは、「トランプが生きているのは、それが実際のプレーに使われているときである。」という名言があるように、それぞれの言語の特徴に合った使い方をすることである。だから、私は異なる言語を話す相手によって話し方を変えていきたい。