人間は多面的であるため

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 自分は自分であって、それ以外のものではあり得ないと主張される自分は、他方ではどこかに所属している。あるいは所属せざるを得ないというこの原理は、名づけ、すなわち、ことばの原理そのものから発しているように思われる。 人間の名前がその所属を示すように山も河も海も、名づけられると同時に、その領有への主張が背後にすべり込む。こうして固有名詞は、たちまち緊張した政治の磁場を作り出すのである。

言語や固有名詞が、人間の思考・社会構造・対立を規定し、時に分断や固定化を生む問題がある。

その原因は第一に、言語が民族・文化と強く結びつきすぎていることだ。

古来より、その国の言語というのはその国の文化や風土と結びつき、その土地ならではの感性や価値観を生み出した。その土地ならではの概念によってうまれた言葉は、他の土地ではその概念や言葉は存在しなく、翻訳の際にニュアンスや余韻が大きく変わってしまう。松尾芭蕉の俳句がその一つだ。かの有名な「古池や 蛙飛びこむ 水の音」という俳句。これを英語に翻訳すると「An old pond— a frog jumps in,  a frog jumps in,」となる。「や」の切れ字が生む間や余韻というのは英語では完全に翻訳することができない。そのため、事実をただただ羅列した文になってしまい面白味がなくなってしまう。このように、他の土地の程度の技術や考え方は翻訳によって輸入することは可能だが、その国の価値観や概念を根底まで翻訳することは難しい。現代がどんなにグローバル化社会といえども、その土地土地の価値観や概念はこれからも固有のものとしてあり続けると思う。

第二の原因は、固有名詞が人間を社会的枠組みに固定し、対立を生むことだ。

人間というのは、本来多面的で流動的な存在である。しかし、固有名詞や呼称は、その複雑さを単純化し、特定の枠組みに押し込めてしまうことがある。それが、第一次世界大戦の終戦から第二次世界大戦終戦までのドイツがこの典型的な例であると思っている。連合国(イギリス・フランス・ロシアのちにアメリカも参加)とドイツ含む連合国軍の四年間に及ぶ対立は、連合国軍の勝利により第一次世界大戦は終わった。連合国軍の中心であるドイツは、約一三二〇億金マルクとドイツの10年分以上の国家予算に相当する賠償金を背負うことになった。それにより、ドイツではインフレが起き、人々の生活は不安定になった。そのときにあらわれたのがヒトラーだ。彼は、ドイツ人は優秀な民族であると説いて国民を団結させ一つの方向に向けさせたのだ。それが後々、ユダヤ人の迫害へとつながる。このように、国名や民族名といった固有名詞によって人々が固定的な集団として捉えられることは、歴史の中で対立や排除を生み出す大きな要因となってきたのである。

確かに、言語や固有名詞による社会的枠組みができることにより文化や価値観が長い間残すことができる。しかし、人間は本来、一人ひとり異なる存在である。そのため、固有名詞という枠組みの中で全員が同じでなくていいのである。それができると、世界の緊張した政治の磁場を小さくできるのではないだろうか。