目に見えない物の価値

   中1 はる(akiiko)  2026年5月1日

 

目に見えない物の価値

 

 森林関係の研究所に勤めていた際に、森林組合の案内で森を歩いた経験に基づく考察である。そこで語られたのは、その森がいかにしてつくられてきたかという背景であった。

 目にしている森の美しさは、単なる自然の美しさではない。そこには、その森を愛し、守ろうとしてきた人々の深い気持ちがあった。そしてその気持ちは、単なる抽象的な思いにとどまることなく、森を育てる職人たちの高度な技術、すなわち「腕」によって具体的に実現されていたのである。森の美しさとは、この人々の気持ちが職人の腕と共になった姿であった。森という存在の背後には、人間の精神と技術がひとつに結実した美しさがあり、そこに深い感銘を受けるのである。

 私は、物の価値をお金という基準だけで測るべきではないと考える。内山氏が森の裏側に「人の想い」を見たように、私たちも表面的な数字や新しさの向こう側にある、本当の豊かさを自らの感性で発見する必要があるからだ。価格という「ラベル」を剥がした後に残る本質こそが、真の価値だと信じている。 

 第一の理由は、お金で測れない価値には、その物を大切にしてきた人の「記憶」と「願い」が地層のように積み重なっているからだ。

 例えば、私がこの春から着ている制服やジャージは、知人から譲り受けたものである。生地の柔らかさや、わずかな着慣れた跡には、前の持ち主が三年間積み重ねてきた学校生活の記憶が刻まれている。特にジャージを見つめると、かつて誰かがこれに袖を通し、一生懸命に活動していた時間の温度が伝わってくる。私にこれらを託してくれた人の「新しい生活を頑張ってほしい。」という温かな願いは、新品の箱から取り出したばかりの無機質な物からは決して感じることができない。私にとってこれらは、単なる衣類ではなく、誰かの想いを受け継ぎ、自分を励ましてくれる心強い「伴走者」だ。物の価値とは、目に見える価格ではなく、その物を通して伝わってくる「人の心」によって決まるのだ。 

 第二の理由は、お金で手に入る「効率」よりも、自分の手で時間をかけて作り上げる「体験」にこそ、代わりのきかない生命力が宿るからだ。

 今の時代、お金を払ってCDや音源を買えば、いつでも完璧に整ったプロの歌声を聴くことができる。しかし、最近入部した合唱部で気がいたのは、たとえ未完成であっても、自分たちの体で一つの響きを絞り出していくことの尊さだ。例えば、先輩から「ソプラノの高音を出すための体の使い方」を教わり、試行錯誤しながら音楽室の空気を震わせていく過程には、人任せに音を聴くだけでは得られない手応えという名の「自分だけの発見」がある。

 先日、先輩から「二年生よりも上手だね。」と褒めていただいた時、私はその言葉に、どんな名盤のCDにも勝る価値を感じた。それは、お金で「結果」を買うことでは決して味わえない、自分の努力が「響き」という形のない宝物に変わった瞬間の喜びだったからだ。内山氏が森の美しさの裏に職人の「腕」を見たように、私たちの歌声の裏側にも、数値化できない情熱が流れている。効率よく「いい音」を手に入れること以上に、自ら苦労して技術を磨くというプロセスそのものが、お金という基準を超えた真の豊かさなのだと私は確信している。 

 確かに、お金は社会において最も合理的で公平な基準である。効率よく買い物をして時間を節約し、生活を便利にすることは、現代を生き抜くための知恵でもある。すべてを感情や背景だけで判断するのは現実的ではなく、経済的な視点を持つのも客観的な生き方の一つかもしれない。お金は便利な「道具」であるが、万能な「物差し」ではないことも事実だ。 

 フランスの作家サン=テグジュペリは、その著書『星の王子さま』の中で、「肝心なことは、目に見えないんだ。」という言葉を残している。内山氏が森の背後に職人の想いを感じ取ったように、私たちも価格というラベルに惑わされず、心の本質を見抜く「審美眼」を持たなければならない。本当に大切な価値は、レジで支払うお札の枚数には決して現れない。数字に還元できないものこそが、人生の質を決定づけるのである。 

 以上の理由から、私は物の価値をお金という枠組みの外で考える姿勢を大切にしたい。効率や安さだけを求める消費の波に流されるのではなく、その裏側にある「人の手」や「流れた時間」に敬意を払うこと。内山さんが見た森のように、一つの物の向こう側に広がる物語を豊かに想像できる人間でありたい。

 「いくらか」ではなく「どう作られたか」を問い続けること。社会が用意した既成の基準を捨てて、自分の心で価値を発見し、定義すること。その積み重ねが、モノクロの数字で埋め尽くされた世界の中に、自分だけの色彩豊かな人生を切り拓いていくのだと私は確信している。