使用価値と商品価値
中1 あこりお(akorio)
2026年5月1日
村長は、ヒノキを高く売るために、樹齢二百年を超えた大木が細切れにされることなど容認できなかった。商品価値を高めることが、木を侮辱することであってはならないと思った。使用価値と商品価値は、必ずしも両立しない。輸入材は自動化できるが、国産材は職人の技術を要する。木の文化は、木が本来持っている価値を生かそうとする人たちの気持ち、その気持ちを仕事で実現する職人たちの腕と共にあったのだ。私は、モノや事を、金だけに執着して換算しない方が良いと考える。その理由は二つある。
第一に、金に換算しないことによって、モノ本来の価値を感じられることがあるからだ。スーパーで花が売っていることがある。私たちはそれを見て、美しいと感じる。道端に花が生えていたとしよう。私たちはそれに価値を感じるだろうか。私たちは、値札がついている「花」と、普段目にしている「花」を区別しているように思う。だからこそ、経済的な考えから一歩引いて、モノが本来持っている素晴らしさを感じ取ってみることが大切である。花や自然、お金に換算できないモノの価値と、生活に欠かせない必需品の価値は、意味が異なると思う。だから、目に見える価値だけではなく、目に見えない価値も感じ取れるような人になりたい。
第二に、金に換算することで、金に換算できないモノの良さを感じる感受性が乏しくなることがあるからだ。自然環境を破壊してまでエネルギーを得ようとする太陽光発電もその例だ。日本はエネルギー自給率が低く、日本で使われるエネルギーの約八割を輸入に頼っている。また、火力発電などの二酸化炭素を発する発電方法も地球温暖化などの環境問題を悪化させると言われている。そこで利用しようと考えたのが、太陽光発電だ。今では、街中を通ると広大な山や野が太陽光発電パネルが敷き詰められている様子を見かける。それを見て、私は村長や著者のような虚しい気持ちに陥る。元々は自然環境を保全するための取り組みだったのに、それが直接環境を破壊することにつながってしまっているからだ。私たちは自然という価値に表せない環境を、エネルギーのために失ってしまっていることになる。私は、太陽光発電自体が悪いと言いたいわけではなく、設置する場所を変えてほしいと思っている。自然の価値に言い表せない美しさを感じ取れる人が増えてほしいと願っている。山の面積の使用価値と発電によって得られるエネルギーの商品価値、どちらもを両立できる方法はないのだろうか。
確かに、モノの価値を金に換算することも、私たちの生活にとって必要なことだ。なぜなら、そうしなければそのモノを作った人に適切な利益がいかなくなったり、価値の差がわかりづらくなったりするからだ。しかし、「理想に到達するための手段はまた、理想への到達を阻む障害でもある。」という名言があるように、元々モノの価値を金で表すようになったのは、物々交換ではお互いそのものの価値が適切に得られないからであり、その目的はモノの価値を明確にわかりやすくすることだったと思う。その理想に到達するために人類は金という概念を生み出した。その理想へ到達するための手段は、私たちがモノ本来の価値を感じられなくなってしまうという障害になっていることがある。だからこそ、そのことに気づき、自分の経済的な視野から一歩引いて、モノ本来の美しさを感じてみてはどうだろうか。私は、そんな、モノ本来の価値と経済的価値、つまり使用価値と商品価値をどちらも感じて、それを両立できる方法を考えられる人になりたい。