固有名詞が(感)
高2 あおにま(aonima)
2026年5月1日
固有名詞が、その固有の意味においてはっきりと姿をあらわすのは、かれ/彼女が、父と母だけでなく、きょうだいや遊び仲間をもち、あるいは保育園や学校のようなところに通って社会生活をはじめたときである。固有名詞こそは、人類が決して一つではなく、さまざまな名前――固有名詞をもって分かれ、それぞれが自分あるいは自分たちに対立するものであるということを思い知らせ、相互のちがいをいやが上にもきわ立たせ、それを固定させる道具である。自分は自分であって、それ以外のものではあり得ないと主張される自分は、他方ではどこかに所属している。人間の名前がその所属を示すように、山も河も海も、名づけられると同時に、その領有への主張が背後にすべり込む。こうして固有名詞は、たちまち緊張した政治の磁場を作り出すのである。固有名詞で管理されることは問題だ。原因は二つある。
その原因は第一に、管理社会が進み個人が個人として尊重されなくなってきたためだ。生徒に名札をつけさせない学校でも、担任の先生はもちろん教科担当の先生も、時間がたてば名前を覚えてくれた、という経験があるだろう。自分の名前を覚えてもらったとわかると、嬉しく思い、親がます。しかし名札があると、そういう信頼関係を作るのにかえって邪魔になりそうだ。なぜなら、名札を見れば誰でもその人の名前をその場で知ることができるから、その人の名前を覚えようとしないからだ。
またもう一つの原因は、犯罪防止を名目として監視を強化しようとする社会の風潮だ。地域を明るく住みやすいところにするには、住人同士が挨拶を交わし、不審な人や言動に目配りをするような、顔と顔の繋がりがある社会にすることだと言われているが、「目配り」が「監視」になってしまうと、個人のプライバシーが大切にされない息苦しい社会になってしまいます。近年、防犯カメラが至るところに設置されるようになり、それが犯罪防止や犯人の特定に功を奏している一方で、犯罪とは関わりのない個人の私的な生活も、監視下に置かれているとはいえないだろう。
確かに固有名詞は大切だ。しかし固有名詞で管理されるのは問題だ。固有名詞は、管理のためのものではなく、個人の尊厳を確認するためのものだ。