魏志倭人伝によると

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 魏志倭人伝によると、当時、海をわたって中国と交通する際に、必ず持衰と称する男を一人伴っていたという。それは時の持続、出発地の時間が目的地まで持続すること、そういう流れない時のシンボルなのではなかったろうか。時について考えるには、時をまずその原初の意味においてとらえ直す必要がある。原初に意味において、時は『もの』である。手でつかまえることのできる『もの』、眼で見、耳で聞くことのできる『もの』である。 時は、あるいは時間は、われわれの人生がその上に展開する座標ではない。日本の時間とボルネオの時間とは違うし、現代の時間と古代の時間はちがう。私の時とあなたの時はちがう。時間は決して一つになってはいない。時間をいつもどこでも同じ速さで流れるものであり人生の長さや時の流れを知ることができる単なる長針と短針が何回も回転している道具だと捉えるのは、問題だと思う。

 

 原因は第一に、現代の社会は定刻通りにすべての物事が勧められていることで成り立っていることだ。定刻通りに進むことで私たちは自分たちの時間を効率的に活用することができている。特に、社会人や学校に通っている生徒たちは定められた時刻表をもとに日々の生活を送っている。例えば、小学校から高校は時間割表というもので一日授業が進み、授業の間にあるランチタイムや休み時間もすべて決められている。一方で、休みの日は時間にとらわれずに自由がままに優雅なひと時を過ごすことができる。たまには夢中になって時間の経つの忘れるほど没頭し、日常とは異なる時間の過ごし方をしてみるのも案外悪くないだろう。

 

 原因は第二に、文明が進んだ先進諸国と呼ばれる国民は時間感覚以外の時間の流れがあることを忘れていることが、発展途上国の国民と比べて比較的多いからだ。自然科学の磁連れとして「ゾウの時間ネズミの時間」では動物によって時間というものは同じ24時間でもそれぞれ違うという研究結果が発表されている。つまり、効率的または直線的に進む先進国の時間感覚だけで世界を測るのではなく、多様な生物学的時間や、文化的な『時間の流れ』の存在を認識することが大切になってくる。また、「八日日の蝉」というドラマ化・映画化された小説があるが、蝉の生きて感じる八日間は、人間の感じる八日間では、時間の流れがまったく違っていそうだ。蝉は人生の大半を土の中で過ごし八日間は地上で過ごす。だから彼らにとって地上にいることがどれだけ大切で貴重な時間かということが分かる。

 確かに、現代の社会では、定刻通りに事を進ませるのでなければ社会は機能しない。しかし、時間は単一の座標ではなく、生きるものである。だから、時間を、いつもどこでも同じ速さで流れるものであり。人生を展開するための単一の座標と捉えるのは問題だと思う。