少年のころの桜は
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年月日
散り初めのころのある日、枝を離れた花びらを見ていて、これが地面に達するまでのあいだの状態を、ぴたりと表す言葉がないのに気がついた。桜の花びらと、からまつの葉と、自然はついに言語の及びえないものなのであろうか。もし日本語にそれがなければ、それは日本語の語彙の貧弱を意味する。
中学の入学式でちょうど桜が満開だった。満開になって、桜もしだれ桜のように垂れていてとてもきれいで感動した。入学式の日に垂れている桜が見れてとても嬉しかった。まるで私の入学式を祝福してくれたように思えた。一年後にまた、満開な桜を見せてくれるだろう。その時私は中学2年生だ。どうなっているだろうか。
私の中学校の教育目標には「あいさつは先手必勝」というのがある。それは自分から積極的にあいさつをすることで、おたがい良い気持ちで過ごせるということだ。他に、「きれいゆずり」というのがあり、公共のものを長くきれいに使おうということだ。この二つとも、良い気持ちになると思った。それは自分から積極的にあいさつをするということは中学だけでなく、小学生でも大事だと教わったのだ。あいさつは人間関係の第一歩だと思う。そして、きれいゆずりは、次、使う人のことを考えてきれいに使えば、自分も相手も良い気持ちになることだと思う。
私が桜の散る様子を言葉にしてみた。もし、私が作者なら、桜吹雪だと言うだろう。満開の桜の花びらがひらひらと舞い、まるで雪のように散りゆく幻想的な桜だ。桜は散る様子もきれいだと思った。
他の体験で虹が出たときに、そのきれいさをどのように言葉で表現したら伝わるのかがわからないくらいにきれいな虹だった。
人間にとって言葉とは、使い方を間違えれば人を傷つけ、最悪の場合、死に至るほど言葉は怖い道具だ。言葉には、大きく分けて、2つある。言われて嬉しい言葉と悲しい言葉だ。私の小学6年生の担任の先生が毎日生徒たちに怒ってばかりだった。私たちは何も悪いことはしていないのに、先生の都合で怒っていた。物を投げつけたり、怒鳴ったりしていた最悪の先生だった。その先生に褒められたことは一度もない。授業のやり方にも不満があった。動画だけを見せてあとは振り返りを書いて終わるだけの授業だ。そんな授業はあるのかと思った。それだったら、私にもできるくらい簡単だ。よく、先生になれたと思う。なので、私の学校は知識が全然ないのだ。それから、私が好きだった先生も、どんどん違う学校に異動してしまう。良い先生たちほどいなくなってしまうのだ。社会はそういうものだ。親がいる土曜授業や保護者などまったく別人のように態度を変えていた。こういうことがあって、先生がものすごく嫌で、受験すると嘘をつき、学校にまったく来なかった生徒もいた。私だって受験すると言って休みたかった。なのに、親から何が何でも行けと言われていたのでしょうがなく行っていた。最後の卒業式は、先生がしゃべっている動画だけみせられただけで終わった。本人がいるのに、しゃべらないのはおかしいと思う。卒業式もずっと怒っていた。誉め言葉は一度も出なかった。それに対して、一回でもいいから誉めてほしかったと思う。でも、今の中学の先生は、生徒たちの良いところをたくさんほめてくれるので、小学校の先生と中学校の先生はそれほどまでに、違うということが分かった。私が思うには、言葉のの使い方が上手ではなかったのだと思った。「口は災いの元」が言葉の恐怖を示しているぴったりなことわざである。