言葉の表現
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日本語は細かな微小感覚を表し分けて、花便りの言葉なども、誠に風情に富んでいる。ところが、散り初めのある日、枝を離れた花びらを見ていて、これが地面に達するまでの間の状態を、ピタリと表現できる言葉がないことに気が付いた。何をそう面倒な、『降る』で良いではないかとも思うのだが、雪よりも時間をかけて、浮かびながら降りてゆく一枚一枚の、数量と重量についての微小感覚が、『降る』には欠けていてもどかしい。もし本当に日本語にそれがなければ、それは日本語の語彙の貧弱を意味するだろう。
私は学校で『相手に伝わる表現の仕方』を指導されることが多々ある。例えば、一年生の時、日記を書く際に、『おもしろかった』『楽しかった』等の、誰でもいえる感想を書いてはいけないと習った。また、五年生の家庭科の授業で、『おいしい』『まずい』という単語をつかってはいけないと言われた。ただ美味しいだけではなく、どんな風なのか、読むだけで相手が想像できる表現を選んで使うのである。実際、ただおいしい・まずそう等と書かれていても、実際に目にして試してみるまで深くそれを理解することはできない。しかし、『草みたいな味』『黒豆みたいな見た目』などと何かにたとえて説明することで、それを見たことがない人でも、現物に近いものを想像できる。言葉が明確になればなるほどより言いたいことが伝わるのである。言葉は沢山ある中で、日本語は他の言語と比べても、数が多い気がする。『ポタポタ』『しとしと』このように、同じような意味を表すオノマトペが沢山ある。例に挙げたものは一滴ずつ雨が降る様子だが、他にも『パラパラ』『ザーザー』等と雨を表すオノマトペはたくさんある。外国語にはオノマトペはなく、日本語特有の表現らしい。私の偏見かもしれないが、外国人(の言語)は大雑把なイメージがある。なぜなら、花便りの表現でも、花が木から『落ちる』・『咲く』、『たくさん』・『少し』ある、のような表現しかないと私は思うからだ。英語は、『eat』で飲食の両方の意味を説明しまうらしいため、英語を作った人は相当なめんどくさがりだったのかも(笑)
母に花が地面に落ちるまでの表現がないことを説明すると、
「そうやって良い言葉が見つからないから、新しい言葉ができて、どんどん増えて、日本語が豊かになっていくんだよ。」
と母に言われた。だから、日本語には同じような、些細な違いしかない表現が沢山存在しているのだろう。そして、日本語には、同じようなことを意味する表現があると伝えると、
「大和色というのがあって、ピンク・オレンジみたいのじゃなくて、桜色、鶯色、若葉色とかなんだけど、ものすごい量があるから調べてみな」
と言われた。実際に調べてみると、赤系の色だけでも、桃色・似桃色・淡黄色・洋紅色・紅赤・紅梅色……と数えてみると100以上もの色があった。ほとんど同じような色もあれば、全く違う色もある。それらを全て『赤』の一つにまとめてしまっていいのか疑問が出て来るほどであった。でも、昔の日本人はその言葉が必要だと思ったのだろう。(作りすぎな気もするが)
人間にとって言葉とは、一つの道具のようなもので、研鑽を積むように磨き上げ、より優れたものに改良していくのである。