自分

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 固有名詞が、その固有の意味においてはっきりと姿をあらわすのは、社会生活を始めたときである。固有名詞があるということ自体が言葉が社会的なものであるということの証拠になるのだ。現代社会では、人やものが固有名詞で呼ばれるものであり、呼ばれなければならないことを一挙に教えこまれるのである。固有名詞こそは、人類が決して一つではなく、固有名詞をもってわかれ、それぞれが自分あるいは自分たちに対立するものであることを思い知らせ、相互の違いをきわ立たせ、それを固定させる道具である。

 固有名詞を重要視しすぎる今の社会は問題である。

 第一に考えられる原因は、効率を大切にするがために、肩書きの奥をみることが後回しになっているからだ。学歴は、社会人が生きていくうえで重要視される肩書きだ。それは例えば、就職試験の際に〜大学卒業などというラベルがあると、会社側が相手の背景を推測する手間を省けるためである。従って、学歴という肩書きが重要視されている現状は脳が効率化を求め続けた結果だと言えるだろう。僕がいま通っている高校の生徒は、フリースクールに通っていた子たちや、学校に行けていなかった子など、義務教育を受けて来なかった子が多くいる。普通の高校の場合、入試ではまず肩書きを見るため、僕の高校にいる多くの人が落とされてしまうのではないかと思う。しかし、その肩書きにとらわれず、その人それぞれの考えや経験を深ぼってみてやっと、その人の人物像がみえてくる。それを肩書だけで済ませてしまっている今の方法は本当にもったいないことだと僕は思う。広い肩書きなどは、その人のことを指す一部分でしかない。そしてそれは、その人のこと自身をあらわすものとしては一部分にも当てはまらないのではないだろうか。

 第二に考えられる原因は、人間には自分の立ち位置や、アイデンティティを持とうとする習性があるからだ。僕が好きな漫画、ドラゴンボールに登場する亀仙人は、スケベなことで有名だが、素晴らしい師であることも忘れてはならない。ドラゴンボールの世界で数年ごとに開催される天下一武道会には、様々な武道の達人が優勝を目指して出場する。そこに出場する選手のほとんどは、名声を手に入れたり、賞金を手に入れたりすることが目的である。しかし、亀仙人は弟子である悟空とクリリンにそのようなことは決して言わなかった。「武道は相手に勝つためのものではなく自分に負けぬためのものだ。ここでその技量を試し、また上を目指せ。」というように、天下一武道会に出場させる意図と思いを語った。亀仙人はその後、弟子たちに上には上がいると実感させ、驕り高ぶらないよう、自ら変装して試合に出場し、そのことを二人に教えたのだ。このように亀仙人は、スケベなことを棚に上げると、人としても師匠としても本当に素晴らしい人物なのである。

 たしかに、自分に自信をもつために立ち位置を確認したり、固有名詞をもったりすることも大切だ。しかし、自信とは、固有名詞としての自分を認められるときではなく、本当の自分の中を認められたときこそ強く沸き起こるものだ。だから、固有名詞を重要視しすぎる今の社会は問題である。