中3 あえかわ(aekawa)  2026年5月1日

日本語には、沢山の擬音語、擬態語というオノマトペが存在する。これらは同じ文化の中を過ごす人には伝達の機能を発揮するが、ほかの文化の中に過ごす人には通じない。オノマトペは抽象力がない言語だともいえるが、音声そのものを表すことができる優秀な表現の手段だ。私は、擬音語や擬態語に代表されるような豊かな表現を大切にする生き方をしたい。

 そのための方法としては第一に、自然や音に敏感になることだ。観察力は、表現力の根っこになる。例えば雨でも、「しとしと」「ざあざあ」で、世界の色が変わる。歩き方でも、「すたすた」「どすどす」という言葉だけでその人の感情まで想像できる。言葉は単なる記号ではなく、景色や感情を運ぶものなのだ。昨今はSNSやネットの発達により、自然の音や周囲の変化をじっくり感じる機会が減ってきていると思う。電車の中でもイヤホンでノイズキャンセリングしている人も多い。便利になった反面、風や鳥の音、雨の降り方の違いさえも気づかれにくくなっている。現代人の表現力が乏しくなっているといわれているのは、言葉を知らないのではなく、このように観察力が足りてないからなのではないか。

 第二の方法として、方言や昔からの言葉を大切にすることだ。地域ごとの言葉には、その土地の感覚や歴史、生き方が詰まっている。例えば、雪の多い地域では雪を表す言葉が、海の近くでは海を表す言葉が多いように、方言はその地域の人の生き方の証ともいえる。また、昔から愛されてきた言葉には現代の言葉にはない味わいがある。「木漏れ日」や「せせらぎ」は美しい日本として有名だが、一つの言葉の中に風景画が閉じ込められたようだ。便利さだけでひとまとめにして標準化すると、そのような繊細な感覚まで失われるうえ、言葉の味が薄れてしまう。効率だけでなく、言葉の温度や響きも大切にするべきなのではないか。

 確かに、理性的な言葉のほうが事実を正確に伝えることができる。天気予報で雨がざあざあ降るでしょうと言わずに、降水確率で説明するのは事実を正確に伝えるためだ。現代では正確な情報を要する場面も多い。だが、ブレーズ・パスカルの人間は考える葦であるという言葉のように、人はただ便利に生きるだけでなく感じ、考え、表現してこその存在だ。悲しい時に感じる「ぽつん」とした喪失感、「わくわく」と心を躍らせるように、人は感情や感覚のフィルターを通して世界を受け取っている。私はどれだけ社会が進化しても、人間にしかできない温度のある言葉や美しい響きなど、豊かな表現を大切にする生き方をしたい。