少年のころの桜は(感想文)

   小6 あかすな(akasuna)  2026年5月2日

 日本語は花便りの言葉も、微小感覚を表し分けてまことに富んでいる。ところが、散り初めのある日、枝を離れた花びらを見ていて、これが地面に達するまでのあいだの状態を、ぴたりと表す言葉がないことに筆者は気が付いた。似たような光景を、筆者は秋の信州で見たことがある。桜の花びらと、からまつの葉と、自然はついに言語の及び得ないものなのであろうか。何をそうめんどうな、「降る」で良いではないかとも思うのだが、雪よりも時間をかけて、浮かびながら降りてゆく一枚一枚の、数量と重量についての微小感覚が、「降る」には欠けていてもどかしい。もし日本語にそれがなければ、それは日本語の語彙の貧弱を意味するだろう。

 小学校生活では、自分の気持ちを上手く表現する仕方を教えられることがたくさんあった。体育の振返りや、音楽の感想、国語の時の感想、というように感想に関する時に多く指導される。詳しく言うと、「うれしかった」や「楽しかった」などと誰でも書けるような書き方はしないで、「何がうれしかったのか」、「何が楽しかったのか」と書くことだ。それは今までの5年間、毎年のように言われていることであった。したがって、私は自分の気持ちを詳しく表そうとするようになった。しかし、それに適切な表現の言葉が分からなかった経験がある。例えば、うれしいときや嫌な気持ちの時、何かがあってパニックになっているとき、きれいな風景を見た時など様々だ。私の体験で特に心に残っている思い出は、4年生の夏休みごろに高尾山に家族で行った時のことだ。登るのに疲れていたせいか、頂上に行った時は、まるで空を飛んでいるかのような爽快感を感じた。また、一番上から見た景色は、とてつもなくきれいだった。そのため、この体験から私は、言葉では上手く表すことができない気持ちもあるのだと思った。

 桜が地面に達するまでの様子を言葉で表してみることにした。春の風がふわりと吹くと、桜の花びらは枝から静かに離れた。花びらは、まるで小さなピンク色のきれいな蝶のように、くるくると回りながら空を舞っていた。すぐに落ちるものもあれば、風に乗って遠くまで飛んでいくものもあり、その動きは一枚一枚違っていておもしろかった。太陽の光に照らされた花びらは、きらきらと輝いて見えた。そんなきれいな桜の花びらをキャッチして願い事をしてから、再び放って楽しんでいる。桜の花びらを取って願い事をしたらかなうという説があるからだ。やがて花びらはゆっくりと地面に達し、道や川の上を春色に染めていった。桜は散ってしまうからこそ、その美しさがより心に残るのだと思う。花びらが最後まで美しく舞っているから、春の景色がもっと特別に感じられるのだと思った。

 人間にとって言葉とは、決して万能なものではない。どれだけ言葉を知っていても、自分が感じたことを完全に表すことは難しいと思う。特に自然の美しさや、その時の気持ちは、言葉だけでは伝えきれないことがあると思う。私も高尾山で景色を見た時、胸がすっきりして気持ちが軽くなったが、その感覚をぴったり表す言葉は思いつかなかった。また、桜の花びらが風に乗って舞う様子も、「落ちる」や「降る」という言葉だけでは足りないように感じた。まるで生き物のようにふわふわと動き、一枚ずつ違う動きをしていたのをこの目で見たからだ。このように、自然には言葉では言い表せない美しさがあるのだと思う。しかし、だからこそ人は自分なりに工夫して言葉で伝えようとするのではないだろうか。「百聞は一見にしかず」ということわざがあるように、実際に見たり感じたりしなければ分からないことはたくさんあると思う。それでも、自分の感じたことを少しでも相手に伝えられるように、これからも言葉を学び、表現を工夫していきたいと思う。