時間

   高2 あうては(auteha)  2026年5月2日

 流れない時、時間を超えた時、そういうときは確かにあった。山川の流れにも表層のみずは白く泡立ってながれていても、深層の水は静かにたたえている。そういうことがある。時間も同じことである。時は、あるいは時間は我々の人生がその上に展開する座標ではない。日本の時間とボルネオの時間とは違うし、現代の時間と古代の時間とは違う。私の時とあなたの時とは違う。時間は決して一つになってはいない。

 第一の原因は学校で時間があまり守られていないからだ。多少遅れても構わないという空気があり時間が絶対的な存在だという意識が薄れてしまっている。例えば英語の先生はいつもチャイムから五分弱遅れてくるせいで、たまに二分遅れで来る時など、今日は早いなと感じる。変わらず遅刻しているにも拘らずだ。ほとんどの先生が長短の差はあれど大体その調子なので、連鎖的に私たちもチャイムが鳴った時点で自分の机にいる人は少数派になっている。そして次第にチャイムが本来の用をなさなくなり、時間を意識しない癖がついてしまって、結果的に時間にルーズになっていく。私たち学生にとって学校生活とそこでの人間関係の比重はとても大きく、学校でそのような有様だともはや如何ともし難い。

 第二の原因は所要時間の見積もりが甘いからだ。つい問題を先延ばしにしてしまい、ギリギリを狙った結果遅れることが日常茶飯事だ。習い事でも待ち合わせでも時間を後ろから逆算して余裕を持って行動しないと大体は遅れることとなる。私は課題の提出は期限内に出せることがほとんどなのだが、時間内に行動するということは結構苦手としている。具体的には、塾に時間通りについたり、待ち合わせ場所に時間を守って集合したりすることである。どうしてもギリギリを狙う癖がついていて、それにも関わらず、ギリギリを狙うとほとんどの場合遅刻する。そして、遅れそうになったところで連絡をちょっとしてやれば何も不都合なことは起こらないので、自分の悪癖をなかなか克服できないのもなかなかタチが悪い。ちなみにたまに一念発起し、五分前行動を心がけてやっと時間丁度に着いている。

 確かに時間に縛られないことも大切だ。私たちは本来気の向くままに行動する方が向いているのではないかと思う。しかし現実問題、社会という枠組みがあり、なかなかそのようには回らない。社会という枠組みに多種多様な人々が放り込まれているわけだが、彼らが互いに噛み合って社会を回していくには統一された基準が当然必要であり、それが時間であるというわけだ。船頭多くして船山に登るということわざがあるように、多くの人々が協力して行動するには普遍的、絶対的価値基準が必要となる。そしてもちろんそれらはただ存在するだけでは用をなさない。私たちがきっちりと守っていくことが重要となる。時間は破るためにあるのではなく、守るためにあるのだ。破るのを当然とするのではなく、いかにして時間通りに進んでいくことができるかを重要視していきたいと思う。