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 流れない時、時間を超えた時、そういう時はたしかにある。山川の流れにも、淀むときがあり、早瀬となって走るときがある。時間も同じことである。時について考えるには、時をまずその原初の意味において捉え直す必要がある。時はものである。手でつかまえることのできるもの、眼で見、耳で聞くことのできるものである。時はタンジブルなものだ。ものを離れて時はない。時は、あるいは時間は、われわれの人生がそのうえに展開する座標ではない。時間は決して一つになってはいない。

 時をものがあってこそ成り立つものではなく、単なる記号と受けとっている現代社会は問題である。

 第一に考えられる原因は、我々人間は、自然環境にいる生き物であるということを忘れている人が多いからだ。僕は友達とGW中に二泊三日のキャンプに行った。前回は海の近くで水もあり、比較的過ごしやすい環境だったが、今回は高山の中だったため、前回よりも厳しい生活だった。まず、水がないため、川の水を煮沸して飲んだ。灰が混じって鉄の味がしてまずかったが、鉄分はとれた気がした。また、1日目の夜に大雨も降り、凍えながら眠った。このように生活していた自分たちは、時間についても心がけていたことがある。それは、極力時計を見ないようにすることだ。時計をほとんど見なかったので、明るくなったら起きて朝ご飯を作り、日の入り前に薪を集めご飯を食べるという生活をした。自分の本能に従って生きることとはこういうことなのだと実感した。今の人々の多くは、時間を記号としてとらえ、縛られて生きている。そうではなく、自分のなかの時を大切にし、時とともに生きていかねばならないと思った。

 第二に考えられる原因は、時間は、人やものごとによって変化するものであることを理解できていないからだ。フランスの哲学者であるアンリ・バルクソンは、一九二七年にノーベル文学賞を受賞した人物だ。ベルクソンは、時計などの均一に刻まれる数字と、人間が心の内側で感じる時間は全く別物であると主張した。同じ一時間でも退屈なときは長いが、熱中しているときはあっという間にすぎる、というのは錯覚ではなく、そのような意識の流れそのものが時間だと考えていたそうだ。ベルクソンはこれを、音楽を例に使って主張した。曲は音符をバラバラに並べても意味はないが、流れのなかで聴いてこそメロディーとなる。これは僕も感じることだ。同じ曲でも楽譜をまるまる弾くか、自分の耳で感じ、心の中で歌いながら弾くかで、曲の仕上がりが全く変わってくる。これはクラシックギターをやっている中で先生に大切にするよう教わってきたことである。自分の中にあるものを大切にするという点において、時間も音楽も同じなのだ。

 たしかに、時を記号として読みとることは、人間という生物において必要なことだろう。しかし、時とは、記号としてのみ存在するものではなく、一人一人の中で自由に創りゆくべき壮大なものである。人間も生き物なのだ。だから、時をものがあってこそ成り立つものではなく、単なる記号と受けとっている現代社会は問題である。